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動くんならいいかと放置してましたが、引っ越して数年、初めて洗濯機の周りを掃除してみました。
色々気が付いたので書いておきます。




まず洗濯機をずらす。

洗濯機の外し方と注意すべき3つのポイント

ホースの取り外し。
簡単かと思ってましたが、設置以来外したことがなかったので、素直に怖い。
無理に壊して水漏れが怖い。
検索しちゃいました。

給水ホースと排水ホースを取り外します。
水元を止め洗濯機側から外します。
ホースに残っている水がこぼれるので注意。

排水口が見えるまで洗濯機をずらします。
狭い家の中で壁に当てずに、床を傷めないように使い捨て用のマットを敷きます。




洗濯機の排水口の掃除の仕方

排水口
長年洗っていないだけあって汚かった。
上の記述にありますが、最後水を入れて口に蓋をしますが、
その水を入れ忘れ、洗濯まで臭いが逆流してきてました。

洗濯機をひっくり返して気が付きましたが、
経年劣化か、変な洗濯機の移動のためか、
排水ホースにひびが入っていました。
水漏れてしていたようです。




そこで一気に排水ホースを変えました。
同時に給水ホースも。

カクダイ 洗濯機排水ホース アイボリー

カクダイ 給水ホース 1m(全自動用洗濯用)




排水ホースと洗濯機との取り付け口を「エルボ」と言うらしいですが、
こちらはビックカメラでは見つけられなかったです。
根元あたりで切ってつなぎ合わせでなんとかなりました。
洗濯したら漏れるかなと思いましたが、水がきちんと流れさえすれば逆流はしないようで、
取り敢えず大丈夫。

カクダイ 洗濯機用排水トラップエルボ φ31ミリ φ36ミリ 兼用 バンド付

また数年は洗濯機を買い替えずに過ごせそう。
あと一年に一回は排水口の掃除をした方が良さそうです。

聖徳太子

聖徳太子(しょうとくたいし、敏達天皇3年1月1日(574年2月7日) - 推古天皇30年2月22日(622年4月8日))は、飛鳥時代の皇族、政治家。厩戸王または厩戸皇子の後世の呼称。用明天皇の第二皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。

厩戸皇子と呼ばれているが、この頃はまだ天皇号ではなく大王号だった可能性が高く、厩戸王だったとされる説が有力である。

聖徳太子という呼称は生前にはなく没後100年以上を経て天平勝宝3年(751年)に編纂された『懐風藻』が初出と言われる[注 2]。そして、平安時代に成立した史書である『日本三代実録[1]』『大鏡』『東大寺要録』『水鏡』等はいずれも「聖徳太子」と記載し、「厩戸」「豐聰耳」などの表記は見えないため、遅くともこの時期には「聖徳太子」の名が一般的な呼称となっていたことが伺える。

大宝令の注釈書『古記』(天平10年、738年頃)には上宮太子の諡号を聖徳王としたとある。

推古天皇3年(595年)、高句麗の僧慧慈が渡来し、太子の師となり「隋は官制が整った強大な国で仏法を篤く保護している」と太子に伝えた。

推古天皇5年(597年)、吉士磐金を新羅へ派遣し、翌年に新羅が孔雀を贈ることもあったが、推古天皇8年(600年)新羅征討の軍を出し、交戦の末、調を貢ぐことを約束させる[注 7]。

推古天皇11年(603年)12月5日、いわゆる冠位十二階を定めた。氏姓制ではなく才能を基準に人材を登用し、天皇の中央集権を強める目的であったと言われる。

推古天皇12年(604年)4月3日、「夏四月 丙寅朔戊辰 皇太子親肇作憲法十七條」(『日本書紀』)いわゆる十七条憲法を制定した。豪族たちに臣下としての心構えを示し、天皇に従い、仏法を敬うことを強調している。9月には、朝礼を改め、宮門を出入りする際の作法を詔によって定めた。[注 8]

推古天皇15年(607年)、屯倉を各国に設置する。高市池、藤原池、肩岡池、菅原池などを作り、山背国栗隈に大溝を掘る。小野妹子、鞍作福利を使者とし随に国書[注 9]を送った翌年、返礼の使者である裴世清が訪れた[注 10]。日本書紀によると裴世清が携えた書には「皇帝問倭皇」(「皇帝 倭皇に問ふ」)とある。これに対する返書には「東天皇敬白西皇帝」(「東の天皇 西の皇帝に敬まひて白す)[注 11]とあり、隋が「倭皇」とした箇所を「天皇」[注 12]としている。この返書と裴世清の帰国のため、妹子を、高向玄理、南淵請安、旻ら留学生と共に再び隋へ派遣した。

推古天皇21年(613年)、掖上池、畝傍池、和珥池を作る。難波から飛鳥までの大道を築く。日本最古の官道であり[4]、現在の竹内街道とほぼ重なる。

推古天皇22年(614年)、犬上御田鍬らを隋へ派遣する。最後の遣隋使となる。

厩戸皇子は仏教を厚く信仰し、推古天皇23年(615年)までに三経義疏を著した。

推古天皇28年(620年)、厩戸皇子は馬子と議して『国記』、『天皇記』、『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を編纂した。

推古天皇30年(622年)、斑鳩宮で倒れた厩戸皇子の回復を祈りながらの厩戸皇子妃・膳大郎女が2月21日に没し、その後を追うようにして翌22日、厩戸皇子は亡くなった。(日本書紀では、同29年2月5日(621年))



改めて振り返ると怪しさテンコ盛りですね。
生年574年2月7日~622年4月8日。
随分大陸と仏法に興味を持っています。
死ぬときは奥さんと一緒というのも出来すぎですね。




『懷風藻』 原文並びに書き下し文 (前半)

逮乎聖太子、        聖太子に逮みて
設爵分官、肇制禮義      爵を設け官を分ち、肇めて禮義を制す
然而、專崇釋教、未遑篇章   然れども、專ら釋教を崇めて、未だ篇章に遑あらず



『懐風藻』序文の訳をお願いしたいです。

聖徳太子の言及たったこれだけ?
これで聖徳太子=厩戸王ってわかるかな。
無理ないですか。

「天皇」という単語。




天皇

元は皇帝・天子[13]・君主の敬称であり、古代中国で最高神、神格化された北極星(天皇大帝)を指す語[12]である。語源としては7世紀中頃以降で、中国語の天皇・地皇・人皇の一つに由来しており、スメラミコトの漢語表現である[14](この世紀に「天皇」の文字が初めて文献に現れた[15])。なお、天皇(てんこう)は三皇の一種である他に、天帝・天子も意味し天皇(てんのう)に通じる他[9]、皇天(こうてん)は天皇・皇室・天の神・上帝・天帝などを意味する[16]。

「天皇」号が成立したのは7世紀後半、大宝律令で「天皇」号が法制化される直前の天武天皇または持統天皇の時代とするのが通説である。7世紀後半は、唐の高宗皇帝の用例の直後にあたる。

唐の第三代皇帝高宗は、在位の途中の上元元年(674年)8月に皇帝の称号を「天皇」に、皇后の称号を「天后」に、同時にセットで変更した。崩御後も、天后である則天武后によって天皇の称号を贈られ、諡号を「天皇大聖大弘孝皇帝」と記録された。
日本の第四十代天武天皇は、日本で初めて天皇と称された人物。ただし在位中のいつから天皇と称したのかは明らかでなく諸説がある(遅くとも天武6年(677年)12月には天皇号が使用されていた)。その孫の文武天皇の時、大宝律令で天皇の号が法制化され、天武天皇以降、およびその系譜を遡って天皇の諡号が贈られた。

律令制において、「天皇」という称号は「儀制令」に定められている。養老令の儀制令天子条において、祭祀においては「天子」、詔書においては「天皇」、華夷(「華」を中国とし「国外」と解する説と「華」を日本とし「国内外」と解する説がある。)においては「皇帝」、上表(臣下が天皇に文書を奉ること)においては「陛下」、譲位した後は「太上天皇(だいじょうてんのう)」、外出(大内裏の中での移動)時には「乗輿」、行幸(大内裏の外に出ること)時には「車駕」という7つの呼び方が定められているが、これらはあくまで書記(表記)に用いられるもので、どう書いてあっても読みは風俗(当時の習慣)に従って「すめみまのみこと」や「すめらみこと」等と称するとある(特に祭祀における「天子」は「すめみまのみこと」と読んだ)。



「天皇」とは天の中心「北極星」というのが実に納得する理解ですね。
で地上の人は「天子」であって、天の子、天の代理人。
その言葉は天からの預かりもので詔書では「天皇」と記す考え方はカトリックに似てると感じます。
それが転じて天子≒天皇となったと考えた方が素直。
使用について、中国が先か日本が先かというのは、やはり中国が先では?
天武天皇が自分の権威づけのために中国に倣ったのでしょう。




天皇大帝

古代中国では地上からは天空のある一点を中心として星々が巡っているように見えることを知っており、そこを北辰と呼び(天の北極に該当する)、宇宙の中心と考えられていた。そして神格化され、道教や日本で使われる称号の天皇にも取り入れられたとする説がある。

中国の唐の高宗は 「天皇」 と称し、死後は皇后の則天武后によって 「天皇大帝」 の諡(おくりな)が付けられた。これは日本の天武天皇による 「天皇」 の号の使用開始とほぼ同時期であるが、どちらが先であるかは研究者間でも結論が出ていない。



上記の限りで聖徳太子が「天皇」という言葉を使ったとは考えにくいですね。
それに近い概念はあったのでしょうか?
信奉しているのが仏教なら違うような気も。




推古天皇

554年に生まれ、18歳で第30代 敏達天皇の后となり、34歳の時にその敏達天皇に先立たれ、39歳で第32代 崇峻天皇が暗殺されると皇位を継ぐことになります。

 推古天皇は、容姿端麗であったと伝えられており、皇位につくのを2度断り、3度目でようやく聞き入れたそうです。



推古天皇

敏達天皇との間に菟道貝蛸皇女(聖徳太子妃)、竹田皇子、小墾田皇女(押坂彦人大兄皇子妃)、尾張皇子(聖徳太子の妃橘大郎女の父)、田眼皇女(田村皇子(後の舒明天皇)妃)、桜井弓張皇女(押坂彦人大兄皇子の妃・来目皇子の妃)ら二男五女をもうけた。




聖徳太子配偶者
菟道貝蛸皇女
敏達天皇と推古天皇の皇女[1]。
刀自古郎女
父は蘇我馬子、母は物部氏の女。
橘大郎女
父は尾張皇子(敏達天皇の皇子)で推古天皇の孫
膳大郎女
膳臣傾子(加多夫子とも、かしわでのおみかたぶこ)の娘[3]。
爆撃聖徳太子 (PHP文芸文庫)

最近書店で平積みになっている『爆撃聖徳太子』。
聖徳太子を小説にするなんて珍しい(向こう見ず)と手に取ってみた。
こんな得体のしれない人物をどう料理しているか。

意外に小説してた。
スチームパンクをイメージしたというが細かい描写はともかく時代背景とかつじつまあってる。
現実ってこんなだったかもと思わせる点で、まさに小説

中身は
・日本の古代史というより大陸もの
・主人公は聖徳太子、ではなく小野妹子
・「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」をきっかけとして超大国隋に対し倭国(大和朝廷)、というより聖徳太子と小野妹子が立ち向かう
というお話。

こんな話を見たことも聞いたことも考えたこともなかったので、まさに目からうろこ。
すげぇ! ですよ。

爆撃聖徳太子 (ハルキ・ノベルス)

なんで日の目を見なかったか。
調べると結構古い。2004年発売。しかも発売元「ハルキ・ノベルス」。書籍名「爆撃聖徳太子」。
何もかも悪い!
私も発売元がPHPじゃなかったらスルーですよ。
さらに興味を持っていた聖徳太子じゃなかったらまずスルーですよ。

勿体ない。

これは売り方さえ間違えなければ売れる本ですね。
聖徳太子にもっと光を当てて歴史の表に引きづり出してほしいですわ。

最近になり聖徳太子は実はいなかったとされている4つの説

聖徳太子と呼ばれているのは厩戸皇子のことです。日本書紀が誕生したときに、聖徳太子という名称に変更されており、それが今では当たり前となり伝わっていますよね。

日本書紀にしか十七条の憲法の記載が無いとうのも少し不自然です。

推古天皇が王であるとしているのは、聖徳太子の関係で作られた史料でしか見当たらないのです。つまり聖徳太子だけでなく、推古天皇などもすべてが架空の作られた人物だったのではないかと考えられます。






あの「聖徳太子」が教科書から姿を消すワケ

いままでは「聖徳太子」と書かれていたのが、最近の教科書では「厩戸王(聖徳太子)」(山川出版社の『詳説日本史B』)とカッコつきの表記に変わってきています。

彼の行ったとされる実績は「冠位十二階の制定」「憲法十七条の制定」「国史編纂」「遣隋使の派遣」「仏教興隆(三経義疏、法隆寺・四天王寺の建立)」など、こうして書き連ねるだけで膨大です。冷静に考えて、「これらをひとりの人物がすべてやったとは考えられない」というわけです。

遣隋使派遣はあったのですか?
ありました。でも小野妹子で有名な607年が最初ではありません。日本側の記録にはありませんが、中国側にはっきりと600年に遣隋使が訪れたときの詳細な記録が残されています

厩戸王が死去して50年後、凄惨な皇位継承権争い(壬申の乱)が起きます。天皇の権威は失墜し、勝者となった天武天皇(631?~686)は「天皇中心の中央集権律令国家づくり」をすすめていきます。そのとき天武天皇は「厩戸王」というひとりの人物に着目します。彼と同時代に行われた数々の施策を誇大評価し、これらの偉業すべての部分で関与したとする「聖徳太子」をつくり上げたのです。ライバルである有力豪族に対し、神代から続く自らの血筋の優秀性と日本国の統治者であるという正統性を再認識させようとしたのでは、と考えられています。






遣隋使

遣隋使(けんずいし)とは、推古朝の倭国(俀國)が技術や制度を学ぶために隋に派遣した朝貢使のことをいう。600年(推古8年)~618年(推古26年)の18年間に5回以上派遣されている。なお、日本という名称が使用されたのは遣唐使からである。

倭の五王による南朝への奉献以来約1世紀を経て再開された遣隋使の目的は、東アジアの中心国・先進国である隋の文化の摂取が主であるが、朝鮮半島での影響力維持の意図もあった。この外交方針は次の遣唐使の派遣にも引き継がれた。

この派遣第一回 開皇20年(600年)は、『日本書紀』に記載はない。『隋書』「東夷傳俀國傳」は高祖文帝の問いに遣使が答えた様子を載せている。

第二回は、『日本書紀』に記載されており、607年(推古15年)に小野妹子が大唐国に国書を持って派遣されたと記されている。

倭王から隋皇帝煬帝に宛てた国書が、『隋書』「東夷傳俀國傳」に「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)と書き出されていた。これを見た煬帝は立腹し、外交担当官である鴻臚卿(こうろけい)に「蕃夷の書に無礼あらば、また以て聞するなかれ」(無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな)と命じたという[2]。
なお、煬帝が立腹したのは俀王が「天子」を名乗ったことに対してであり、「日出處」「日沒處」との記述に対してではない。「日出處」「日沒處」は『摩訶般若波羅蜜多経』の注釈書『大智度論』に「日出処是東方 日没処是西方」とあるなど、単に東西の方角を表す仏教用語である。ただし、仏教用語を用いたことで中華的冊封体制からの離脱を表明する表現であったとも考えられている。

小野妹子(中国名:蘇因高[3])は、その後返書を持たされて返されている。煬帝の家臣である裴世清を連れて帰国した妹子は、返書を百済に盗まれて無くしてしまったと言明している[4]。百済は日本と同じく南朝への朝貢国であったため、その日本が北朝の隋と国交を結ぶ事を妨害する動機は存在する。しかしこれについて、煬帝からの返書は倭国を臣下扱いする物だったのでこれを見せて怒りを買う事を恐れた妹子が、返書を破棄してしまったのではないかとも推測されている。

これは倭皇となっており、倭王として臣下扱いする物ではない。『日本書紀』によるこれに対する返書の書き出しも「東の天皇が敬いて西の皇帝に白す」(「東天皇敬白西皇帝」『日本書紀』)とある。これをもって天皇号の始まりとする説もある。また、「倭皇」を日本側の改竄とする見解もある[5]。

小野妹子が「返書を掠取される」という大失態を犯したにもかかわらず、一時は流刑に処されるも直後に恩赦されて大徳(冠位十二階の最上位)に昇進し再度遣隋使に任命された事、また返書を掠取した百済に対して日本が何ら行動を起こしていないという史実に鑑みれば、 聖徳太子、推古天皇など倭国中枢と合意した上で、「掠取されたことにした」という事も推測される[5]。




倭国の遣隋使