▼ バグダード
バグダード
バグダード(アラビア語: بغداد/ラテン文字表記:Baghdad, Baġdād)は、イラクの首都で同国最大の都市。
また、バグダード県の県都でもある。
アッバース朝によって建設された古都であり、
中東諸国ではイスタンブール、テヘランに次ぐ大都市である。
2005年の人口はおよそ590.4万人[1]。
バグダードは、イラク共和国の中央やや東寄りにあり、
メソポタミア平原のほぼ中央、ティグリス川中流の河畔に位置する。
その西を流れるユーフラテス川は同市付近でもっとも接近し、
バグダードの南西約40キロメートルを南東方向にむけ流下している。
バグダードは、762年にアッバース朝第2代カリフのマンスールによって新都に定められた計画都市で、
南フランスから中国国境に至る広大なイスラーム帝国の中心にふさわしい都市として、
直径およそ2.35キロメートルの正円の城壁が建設された[5][注釈 3]。
当時のバグダードはキリスト教の司祭や羊飼いなどが住み、時おり定期市の開かれる小さな村落にすぎなかったが、
ティグリス・ユーフラテスの両河が相互に接近し、
サーサーン朝時代の運河(イーサー運河、サラート運河など)が密集し、これら運河が活用できるほか、
対立勢力は船か橋を用意しなければならないところから、
首都として防衛するのが比較的容易なところから新都建設地に選ばれた[3][6]。
バグダードは、アラブ大征服の際に軍人の駐屯地から発達した軍営都市とは起源が異なり、
また東ローマ帝国やサーサーン朝時代の都市を引き継いだものでもない、
純然たる人工都市であり、カリフの宮殿に伺候する多くの官僚やカリフ近臣を擁する都として、
また、王朝建設の主力となったホラーサーン軍団[注釈 5]とその子孫の駐屯地として繁栄した[8]。
アラビア語で「平安の都」を意味するマディーナ・アッ=サラームの名が与えられた新都バグダードは、
当時、唐の長安と並ぶ世界最大の都市であった[注釈 7]。
人口は100万を超え、アッバース朝最盛期の第5代カリフ、ハールーン・アッ=ラシード(在位786年 - 809年)の時代には
150万人におよんだとみられる[11]。
気候
ケッペンの気候区分でいう砂漠気候(BW)に属する[21]。
年平均気温は約22℃と温暖である。冬も平均最高気温が15℃をくだらないが、夏の暑さは厳しい。
気温の日較差は一年を通して大きい。
年間降水量は通年でも123ミリメートルにすぎず、降雨はほとんど冬季に集中する。
冬季は、北極方面からの寒気の影響を受け、月平均降雨日数[注釈 20]が3日ないし5日に達する。
バグダードは、その自然条件により、しばしば大洪水に見舞われ大きな被害をこうむってきたが、
ティグリス川上流のサーマッラーに治水用のダムが設けられため、洪水によって甚大な被害を受ける危険からは救われた[4]。
▼ ダレイオス1世
アケメネス朝
アケメネス朝(古代ペルシア語: 𐏃𐎧𐎠𐎶𐎴𐎡𐏁 Haxāmaniš ハカーマニシュ、古代ギリシア語: Ἀχαιμένης アカイメネース)は、古代オリエントに存在した王朝・帝国・遊牧国家。
紀元前550年~紀元前330年
初代 キュロス2世
最後 ダレイオス3世
ヘロドトスの伝えるところによると、ペルシア人の指導者たちは帝国の統治形態について話し合った。寡頭政治は国を分裂させる危険を、民主政は大衆の人気に乗じた僭主の台頭を招きかねないことから、しかるべき手順で選ばれた君主による君主政を選択した。
従来ダレイオス1世はアケメネス朝の傍系とされていたが、近年の研究により、王朝の創始者であるキュロス2世の直系から、アケメネス朝の4代目とされるダレイオス1世が帝位を簒奪し、連綿と続く王朝ではなかったことが研究者間の論争の中でほぼ明らかになっている。また、最後のダレイオス3世も、もともとは従前のアケメネス朝とはつながりのない地方総督に過ぎなかったが、アケメネス朝が断絶したために擁立されたのだという[1]。
そもそものアケメネス朝の系図自体がダレイオスの帝位簒奪を正当化するための捏造だとする説もあり、すると傍系どころではなく王朝間に全く血縁関係はない可能性も出てくる[2]。この説では、キュロス家の名前(チシュピシュ、クルシュ、カンブジヤ)とゾロアスター教の理念で意味づけられた即位名を名乗ったダレイオス家の名前(ダーラヤワウ、クシャヤールシャー、アルタクシャサ)の系統が大きく異なる説明もつくという。
ダレイオス1世
ダレイオス1世(古代ペルシア語:Dārayavau - ダーラヤワウ、英語: Darius I、前550年頃 - 前486年)は、
アケメネス朝の王(在位:紀元前522年 - 紀元前486年)。
一般にキュロス2世から数えて第3代とされるが、ダレイオス1世自身の言によれば第9代の王である。
僭称者とされるスメルディス(ガウマータ)を排除して王位に就き、
王国の全域で発生した反乱をことごとく鎮圧して、
西はエジプト、トラキア地方から東はインダス川流域に至る広大な領土を統治した。
彼は自らの出自、即位の経緯、そして各地の反乱の鎮圧などの業績をベヒストゥン碑文として知られる碑文に
複数の言語で記録させており、
これは近代における楔形文字と古代ペルシア語解読のための貴重な資料を提供した。
また、今日にもその遺跡が残されているペルセポリスの建設を開始した王でもある。
ダレイオス1世は碑文において新機軸の王号を使用している。
彼が築き上げた広大な帝国を支配するため、それに相応しい新たな王権観が必要とされ、
かつてのアッシリアの称号なども参考に多数の称号が用いられた[5]。
彼はキュロス2世(クル2世[注釈 3])が用いていた称号を一部踏襲しているが、
更にアッシリア王の称号「諸王の王(šar šarrāni)」に由来する「諸王の王(Xšâyathiya Xšâyathiyânâm)」
という称号を採用した[5]。
この称号は同じく彼が用いている「この地界の王(Xšâyathiya ahyâyâ bumiyâ)」「諸邦の王(Xšâyathiya dahyunâm )」等
とも密接に関連し、一部の地域ではなく様々な異民族を支配する世界帝国の王であることを強く意識した称号である[5][6]。
また、アウラマズダー神の恩寵(Vašnâ Ahuramazdâ)によって王となったという
一種の王権神授の立場を取った[5]。
この点は彼以前の王、キュロス2世なども同様の論理を用いているが、
ダレイオス1世が画期的であったのは、キュロス2世の称号がメソポタミアの神々の支持によるという、
バビロニアの現地人向けの「政治宣伝」的な物であるのに対し、
ダレイオス1世のそれはイラン系固有の宗教に基づくものであった点である[5]。
このような変化は、後述の通り彼は簒奪者として王位についた可能性が高く、
バビロニア人等の異民族よりもまずペルシア人の支持を勝ち取る必要があったからであろう[5]。
皇帝
日本国は「万世一系」ですが、「天皇」の称号を使い始めたのは天武天皇。
天智天皇の子(大友皇子、弘文天皇)から皇位の簒奪を疑われている天皇です。
その天武天皇は「古事記」「日本書紀」を編纂し、歴史を明確にしています。
また伊勢神宮で天照大神に戦勝祈願しています。
http://d.hatena.ne.jp/usagihometown/20120219/p6
https://ameblo.jp/taishi6764/entry-12075362850.html
ダレイオス1世と天武天皇は全く別人のはずなのに同じような事跡で驚きました。
自身の正当化を歴史として作っているところ、二人とも限りなく黒なんじゃないでしょうかね。
当時の人は冷たく見ていたかもしれませんが、残った歴史こそが正当ということでしょうか。
アンティオキア
シリアのアンティオキアは、古代の西シリア、オロンテス(現アシ川)河畔に建設された都市。
ヘレニズム時代のセレウコス朝シリア王国の首都、ローマ時代のシリア属州の州都として栄えた。
シルクロードの出発点として知られる。
初期キリスト教の時代には、パウロの異邦人[1]布教の拠点となった都市であり、
キリスト教がギリシア文化の影響を受けて発展した地でもある。
新約聖書『使徒行伝』11章26節によればキリスト者(クリスチャン)という呼称はこの地で初めて用いられたとされる。
また現代の研究者によれば新約聖書『マタイによる福音書』の成立地として有力視される[2]。
後にキリスト教がローマ帝国に公認されるようになって以降は、
アンティオキアがローマ、コンスタンティノポリス、アレクサンドリア、エルサレムと並ぶ五大総主教座の一つとなり、
シリア地域の政治・経済・宗教・文化の中心地として栄えた。
現在も東方教会にはアンティオキア正教会やアンティオキア総主教庁の名称を持つ教会が複数あるが、
実際の活動はシリアのダマスコスや他の都市に移されている。
526年5月29日の大地震で壊滅的な打撃を受け25-30万人にも上る犠牲者を出した。
その後再建はなされたもののかつての偉容は甦らず、
サーサーン朝ペルシアに度々攻撃されるなどしたために衰退がはじまった。
7世紀に東ローマ帝国がイスラム帝国に敗れてシリアを喪失した後には、
アンティオキア周辺は両帝国の争奪の前線となり荒廃し、アンティオキアは北シリアの地方都市となった。
アンタキヤ
アンタキヤ (Antakya) は、トルコの都市。古代シリア地方北部の主要都市アンティオキアの後身であり、歴史的シリアのうちトルコ領に編入された地域にあたるハタイ県の県都となっている。1997年の統計で人口約145,000人。ラテン語名はアンティオキア[1]。
トルコ 危険情報詳細
ちょうどレベル4ですね。
アンタキヤ市街はトルコですが、ちょっと離れるとすぐシリアですね。
グーグルストリートビューはシリア側ですらあるのに、トルコのアンタキヤ内はさぽーとしていないようです。
軍事的な秘密でしょうかね。
シリア属州
シリア属州(ラテン語: provincia Syria)は、紀元前1世紀にシリア地方に設立されたローマ帝国の属州。
紀元前64年にグナエウス・ポンペイウスがセレウコス朝を倒してローマに編入した。
ローマ帝国および東ローマ帝国が7世紀の間にわたり支配していたが、637年にイスラム帝国に征服された。
なお、ラテン語の原音表記による「シュリア属州」とも称される。
その領域は現在のシリアを中心にトルコ南東部、レバノンに広がる。
北にはカッパドキアとキリキア、南にはユダヤとアラビア・ペトラエアの各属州があり、
トラヤヌス帝のパルティア遠征により115年頃にアルメニア属州やメソポタミア属州が東に設立された。
東には強国パルティアがあったため、国境警備のため属州内にはローマ軍団が3つも置かれていた軍事上の要地である。
シリアは東西交易や農業で栄え、多くの大都市を抱える、ローマ帝国内でも有数の豊かな属州であった。
シリア属州の総督は、大きさや重要性の点でローマ帝国の中でも屈指の大都会アンティオキアに本拠を置き、
パルティアとの国境地帯の要塞や軍団をにらんでいた。
主要な産物は穀物、オリーブとオリーブ・オイル、ワイン、レバノンスギなどの木材、
木造の船や木製家具、染織物、ガラス製品、陶器、羊皮紙、象牙で飾った細工物などで、
特にスギなどの木材、紫色の染織物、ガラス製品などはフェニキア時代からの特産品であった。
さらにシルクロードの終点であり、中国から運ばれる絹やインドから運ばれる香辛料など
高価なものの多くがシリアを通じてローマに入った。
内陸にはアパメア、アンティオキア、ベロエア(アレッポ)、エピファニア、エメサ、ダマスカス、パルミラなどの
交易都市や農業都市があり、地中海岸にはラオディキア、シドン、ティールなどの港湾都市があった。
▼ 聖徳太子
聖徳太子
聖徳太子(しょうとくたいし、敏達天皇3年1月1日(574年2月7日) - 推古天皇30年2月22日(622年4月8日))は、飛鳥時代の皇族、政治家。厩戸王または厩戸皇子の後世の呼称。用明天皇の第二皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。
厩戸皇子と呼ばれているが、この頃はまだ天皇号ではなく大王号だった可能性が高く、厩戸王だったとされる説が有力である。
聖徳太子という呼称は生前にはなく、没後100年以上を経て天平勝宝3年(751年)に編纂された『懐風藻』が初出と言われる[注 2]。そして、平安時代に成立した史書である『日本三代実録[1]』『大鏡』『東大寺要録』『水鏡』等はいずれも「聖徳太子」と記載し、「厩戸」「豐聰耳」などの表記は見えないため、遅くともこの時期には「聖徳太子」の名が一般的な呼称となっていたことが伺える。
大宝令の注釈書『古記』(天平10年、738年頃)には上宮太子の諡号を聖徳王としたとある。
推古天皇3年(595年)、高句麗の僧慧慈が渡来し、太子の師となり「隋は官制が整った強大な国で仏法を篤く保護している」と太子に伝えた。
推古天皇5年(597年)、吉士磐金を新羅へ派遣し、翌年に新羅が孔雀を贈ることもあったが、推古天皇8年(600年)新羅征討の軍を出し、交戦の末、調を貢ぐことを約束させる[注 7]。
推古天皇11年(603年)12月5日、いわゆる冠位十二階を定めた。氏姓制ではなく才能を基準に人材を登用し、天皇の中央集権を強める目的であったと言われる。
推古天皇12年(604年)4月3日、「夏四月 丙寅朔戊辰 皇太子親肇作憲法十七條」(『日本書紀』)いわゆる十七条憲法を制定した。豪族たちに臣下としての心構えを示し、天皇に従い、仏法を敬うことを強調している。9月には、朝礼を改め、宮門を出入りする際の作法を詔によって定めた。[注 8]
推古天皇15年(607年)、屯倉を各国に設置する。高市池、藤原池、肩岡池、菅原池などを作り、山背国栗隈に大溝を掘る。小野妹子、鞍作福利を使者とし随に国書[注 9]を送った。翌年、返礼の使者である裴世清が訪れた[注 10]。日本書紀によると裴世清が携えた書には「皇帝問倭皇」(「皇帝 倭皇に問ふ」)とある。これに対する返書には「東天皇敬白西皇帝」(「東の天皇 西の皇帝に敬まひて白す)[注 11]とあり、隋が「倭皇」とした箇所を「天皇」[注 12]としている。この返書と裴世清の帰国のため、妹子を、高向玄理、南淵請安、旻ら留学生と共に再び隋へ派遣した。
推古天皇21年(613年)、掖上池、畝傍池、和珥池を作る。難波から飛鳥までの大道を築く。日本最古の官道であり[4]、現在の竹内街道とほぼ重なる。
推古天皇22年(614年)、犬上御田鍬らを隋へ派遣する。最後の遣隋使となる。
厩戸皇子は仏教を厚く信仰し、推古天皇23年(615年)までに三経義疏を著した。
推古天皇28年(620年)、厩戸皇子は馬子と議して『国記』、『天皇記』、『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を編纂した。
推古天皇30年(622年)、斑鳩宮で倒れた厩戸皇子の回復を祈りながらの厩戸皇子妃・膳大郎女が2月21日に没し、その後を追うようにして翌22日、厩戸皇子は亡くなった。(日本書紀では、同29年2月5日(621年))
改めて振り返ると怪しさテンコ盛りですね。
生年574年2月7日~622年4月8日。
随分大陸と仏法に興味を持っています。
死ぬときは奥さんと一緒というのも出来すぎですね。
『懷風藻』 原文並びに書き下し文 (前半)
逮乎聖太子、 聖太子に逮みて
設爵分官、肇制禮義 爵を設け官を分ち、肇めて禮義を制す
然而、專崇釋教、未遑篇章 然れども、專ら釋教を崇めて、未だ篇章に遑あらず
『懐風藻』序文の訳をお願いしたいです。
聖徳太子の言及たったこれだけ?
これで聖徳太子=厩戸王ってわかるかな。
無理ないですか。
「天皇」という単語。
天皇
元は皇帝・天子[13]・君主の敬称であり、古代中国で最高神、神格化された北極星(天皇大帝)を指す語[12]である。語源としては7世紀中頃以降で、中国語の天皇・地皇・人皇の一つに由来しており、スメラミコトの漢語表現である[14](この世紀に「天皇」の文字が初めて文献に現れた[15])。なお、天皇(てんこう)は三皇の一種である他に、天帝・天子も意味し天皇(てんのう)に通じる他[9]、皇天(こうてん)は天皇・皇室・天の神・上帝・天帝などを意味する[16]。
「天皇」号が成立したのは7世紀後半、大宝律令で「天皇」号が法制化される直前の天武天皇または持統天皇の時代とするのが通説である。7世紀後半は、唐の高宗皇帝の用例の直後にあたる。
唐の第三代皇帝高宗は、在位の途中の上元元年(674年)8月に皇帝の称号を「天皇」に、皇后の称号を「天后」に、同時にセットで変更した。崩御後も、天后である則天武后によって天皇の称号を贈られ、諡号を「天皇大聖大弘孝皇帝」と記録された。
日本の第四十代天武天皇は、日本で初めて天皇と称された人物。ただし在位中のいつから天皇と称したのかは明らかでなく諸説がある(遅くとも天武6年(677年)12月には天皇号が使用されていた)。その孫の文武天皇の時、大宝律令で天皇の号が法制化され、天武天皇以降、およびその系譜を遡って天皇の諡号が贈られた。
律令制において、「天皇」という称号は「儀制令」に定められている。養老令の儀制令天子条において、祭祀においては「天子」、詔書においては「天皇」、華夷(「華」を中国とし「国外」と解する説と「華」を日本とし「国内外」と解する説がある。)においては「皇帝」、上表(臣下が天皇に文書を奉ること)においては「陛下」、譲位した後は「太上天皇(だいじょうてんのう)」、外出(大内裏の中での移動)時には「乗輿」、行幸(大内裏の外に出ること)時には「車駕」という7つの呼び方が定められているが、これらはあくまで書記(表記)に用いられるもので、どう書いてあっても読みは風俗(当時の習慣)に従って「すめみまのみこと」や「すめらみこと」等と称するとある(特に祭祀における「天子」は「すめみまのみこと」と読んだ)。
「天皇」とは天の中心「北極星」というのが実に納得する理解ですね。
で地上の人は「天子」であって、天の子、天の代理人。
その言葉は天からの預かりもので詔書では「天皇」と記す考え方はカトリックに似てると感じます。
それが転じて天子≒天皇となったと考えた方が素直。
使用について、中国が先か日本が先かというのは、やはり中国が先では?
天武天皇が自分の権威づけのために中国に倣ったのでしょう。
天皇大帝
古代中国では地上からは天空のある一点を中心として星々が巡っているように見えることを知っており、そこを北辰と呼び(天の北極に該当する)、宇宙の中心と考えられていた。そして神格化され、道教や日本で使われる称号の天皇にも取り入れられたとする説がある。
中国の唐の高宗は 「天皇」 と称し、死後は皇后の則天武后によって 「天皇大帝」 の諡(おくりな)が付けられた。これは日本の天武天皇による 「天皇」 の号の使用開始とほぼ同時期であるが、どちらが先であるかは研究者間でも結論が出ていない。
上記の限りで聖徳太子が「天皇」という言葉を使ったとは考えにくいですね。
それに近い概念はあったのでしょうか?
信奉しているのが仏教なら違うような気も。
推古天皇
554年に生まれ、18歳で第30代 敏達天皇の后となり、34歳の時にその敏達天皇に先立たれ、39歳で第32代 崇峻天皇が暗殺されると皇位を継ぐことになります。
推古天皇は、容姿端麗であったと伝えられており、皇位につくのを2度断り、3度目でようやく聞き入れたそうです。
推古天皇
敏達天皇との間に菟道貝蛸皇女(聖徳太子妃)、竹田皇子、小墾田皇女(押坂彦人大兄皇子妃)、尾張皇子(聖徳太子の妃橘大郎女の父)、田眼皇女(田村皇子(後の舒明天皇)妃)、桜井弓張皇女(押坂彦人大兄皇子の妃・来目皇子の妃)ら二男五女をもうけた。
聖徳太子配偶者
菟道貝蛸皇女
敏達天皇と推古天皇の皇女[1]。
刀自古郎女
父は蘇我馬子、母は物部氏の女。
橘大郎女
父は尾張皇子(敏達天皇の皇子)で推古天皇の孫
膳大郎女
膳臣傾子(加多夫子とも、かしわでのおみかたぶこ)の娘[3]。
▼ 厩戸王
最近になり聖徳太子は実はいなかったとされている4つの説
聖徳太子と呼ばれているのは厩戸皇子のことです。日本書紀が誕生したときに、聖徳太子という名称に変更されており、それが今では当たり前となり伝わっていますよね。
日本書紀にしか十七条の憲法の記載が無いとうのも少し不自然です。
推古天皇が王であるとしているのは、聖徳太子の関係で作られた史料でしか見当たらないのです。つまり聖徳太子だけでなく、推古天皇などもすべてが架空の作られた人物だったのではないかと考えられます。
あの「聖徳太子」が教科書から姿を消すワケ
いままでは「聖徳太子」と書かれていたのが、最近の教科書では「厩戸王(聖徳太子)」(山川出版社の『詳説日本史B』)とカッコつきの表記に変わってきています。
彼の行ったとされる実績は「冠位十二階の制定」「憲法十七条の制定」「国史編纂」「遣隋使の派遣」「仏教興隆(三経義疏、法隆寺・四天王寺の建立)」など、こうして書き連ねるだけで膨大です。冷静に考えて、「これらをひとりの人物がすべてやったとは考えられない」というわけです。
遣隋使派遣はあったのですか?
ありました。でも小野妹子で有名な607年が最初ではありません。日本側の記録にはありませんが、中国側にはっきりと600年に遣隋使が訪れたときの詳細な記録が残されています。
厩戸王が死去して50年後、凄惨な皇位継承権争い(壬申の乱)が起きます。天皇の権威は失墜し、勝者となった天武天皇(631?~686)は「天皇中心の中央集権律令国家づくり」をすすめていきます。そのとき天武天皇は「厩戸王」というひとりの人物に着目します。彼と同時代に行われた数々の施策を誇大評価し、これらの偉業すべての部分で関与したとする「聖徳太子」をつくり上げたのです。ライバルである有力豪族に対し、神代から続く自らの血筋の優秀性と日本国の統治者であるという正統性を再認識させようとしたのでは、と考えられています。
遣隋使
遣隋使(けんずいし)とは、推古朝の倭国(俀國)が技術や制度を学ぶために隋に派遣した朝貢使のことをいう。600年(推古8年)~618年(推古26年)の18年間に5回以上派遣されている。なお、日本という名称が使用されたのは遣唐使からである。
倭の五王による南朝への奉献以来約1世紀を経て再開された遣隋使の目的は、東アジアの中心国・先進国である隋の文化の摂取が主であるが、朝鮮半島での影響力維持の意図もあった。この外交方針は次の遣唐使の派遣にも引き継がれた。
この派遣第一回 開皇20年(600年)は、『日本書紀』に記載はない。『隋書』「東夷傳俀國傳」は高祖文帝の問いに遣使が答えた様子を載せている。
第二回は、『日本書紀』に記載されており、607年(推古15年)に小野妹子が大唐国に国書を持って派遣されたと記されている。
倭王から隋皇帝煬帝に宛てた国書が、『隋書』「東夷傳俀國傳」に「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)と書き出されていた。これを見た煬帝は立腹し、外交担当官である鴻臚卿(こうろけい)に「蕃夷の書に無礼あらば、また以て聞するなかれ」(無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな)と命じたという[2]。
なお、煬帝が立腹したのは俀王が「天子」を名乗ったことに対してであり、「日出處」「日沒處」との記述に対してではない。「日出處」「日沒處」は『摩訶般若波羅蜜多経』の注釈書『大智度論』に「日出処是東方 日没処是西方」とあるなど、単に東西の方角を表す仏教用語である。ただし、仏教用語を用いたことで中華的冊封体制からの離脱を表明する表現であったとも考えられている。
小野妹子(中国名:蘇因高[3])は、その後返書を持たされて返されている。煬帝の家臣である裴世清を連れて帰国した妹子は、返書を百済に盗まれて無くしてしまったと言明している[4]。百済は日本と同じく南朝への朝貢国であったため、その日本が北朝の隋と国交を結ぶ事を妨害する動機は存在する。しかしこれについて、煬帝からの返書は倭国を臣下扱いする物だったのでこれを見せて怒りを買う事を恐れた妹子が、返書を破棄してしまったのではないかとも推測されている。
これは倭皇となっており、倭王として臣下扱いする物ではない。『日本書紀』によるこれに対する返書の書き出しも「東の天皇が敬いて西の皇帝に白す」(「東天皇敬白西皇帝」『日本書紀』)とある。これをもって天皇号の始まりとする説もある。また、「倭皇」を日本側の改竄とする見解もある[5]。
小野妹子が「返書を掠取される」という大失態を犯したにもかかわらず、一時は流刑に処されるも直後に恩赦されて大徳(冠位十二階の最上位)に昇進し再度遣隋使に任命された事、また返書を掠取した百済に対して日本が何ら行動を起こしていないという史実に鑑みれば、 聖徳太子、推古天皇など倭国中枢と合意した上で、「掠取されたことにした」という事も推測される[5]。
倭国の遣隋使