「メガトレンド」を追いかけ、「5分後の未来を展望する」ことを理想します。





米長さん死去:将棋界の顔「泥沼流」 歯に衣着せず

 将棋界の顔として長年にわたり活躍した、米長邦雄さんが18日、69歳で亡くなった。現役時代は鋭い将棋でファンを沸かせ、引退後は普及活動や日本将棋連盟の経営に、精力的に取り組んだ。

 若くして才能を認められたが、二つの大きな関門があった。大山康晴十五世名人と、同世代のライバル・中原誠十六世名人。大山に挑んだのは1970年の王位戦で、この時は1勝4敗で敗退。やっとタイトル戦で破ったのは83年の王将戦だった。その後棋王を防衛、棋聖、十段を奪取し、4冠を達成した。

 中原は4歳年下で、187局を戦った。先に打倒・大山を果たしたのは中原。中原との初のタイトル戦だった74年の王将戦は、2勝4敗で敗れた。

 名人戦で中原に5度挑戦。93年、自らを日本に渡ろうとして苦心した鑑真和上になぞらえて挑み、4連勝で念願を果たした。

 棋風は中原の「自然流」に対し、「泥沼流」。不利な将棋でも混戦、乱戦に持ち込み、相手をねじふせた。50歳間近での名人奪取は、熟年世代を勇気づけた。

 好奇心旺盛、勇猛果敢。引退後は将棋普及に尽力した。ホームページを早々に開設し、書き込みは病状が悪化した今月初めまで続き、相続や葬儀の手配まで指示した。

 61年ぶりの棋士編入試験実施や、毎日新聞主催だった名人戦を朝日と共催としたり、日本将棋連盟の公益法人化も実現。将棋ソフトとの対戦に名乗りを上げ、敗戦の記を出版。東京都の教育委員も務めテレビのクイズ番組などにも出演、棋士のイメージを大きく変えた。いずれも将棋界からの話題作りを念頭に置いていた。

 歯に衣(きぬ)着せぬ発言で多くの“米長語録”も残した。「私は菜の花のようなもの。トウがたってから実を結ぶ」(93年5月22日、悲願の名人獲得の翌日)▽「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させるというのが私の仕事でございます」(東京都教育委員だった04年10月28日、秋の園遊会で天皇陛下に。陛下は「強制になるということでないことが望ましい」と応じた)−−。話題をふりまき続けた棋士生涯だった。【山村英樹、金沢盛栄】

 ◇「最期を察し連絡くれた」長兄の泰さん

 米長邦雄さんは山梨県富士川町(旧増穂町)生まれで5人きょうだいの四男。同町で将棋教室を開く長兄の泰さん(75)によると、13日に米長さんから「会いたい」と伝えられ、15日に泰さんら兄3人が入院先の東京都内の病院に集った。泰さんは「私たちの問いかけにうなずいていた。連絡をくれたのは最期を察したのでしょう」と悼んだ。

 兄弟は幼い頃、隣近所の人から「縁台将棋」で将棋を教わり、腕を競った。最初は6歳年上の泰さんが教える側だったが「邦雄が小学校高学年の頃には逆転された」と振り返る。泰さんは「天国で将棋を教わったおじさんたちと再会して、昔のように縁台将棋を指してほしい」と語った。






米長邦雄さん死去:さわやか流「投了」 ブログに遺言

◇私は菜の花。トウがたってから実を結ぶ

 将棋界の顔として長年にわたり活躍した、米長邦雄永世棋聖が18日、69歳で亡くなった。現役棋士を引退後も、普及活動や日本将棋連盟の経営に精力的に取り組み、最後までメッセージを発信し続けた。

 ホームページ「米長邦雄の家」には、さまざまなコンテンツがある。その一つ「まじめな私」で11月25日、「最後の時」と題し、遺言ともとれる言葉を記した。

 「最近、自分はいつ、どのような形で人生を投了することになるのか考えるようになりました。一日でも長く、健康な日々を過ごしたいと願ってはいるのですが、いつかは必ずその日がやってくることも覚悟しておかねばならない」。自らの最期を一局の将棋にたとえ、終局に向けての構想を明らかにした。

 さらにその1週間後、「最後の時(2)」とし、「振り返ると、60才までの勝負師人生、その後の経営者としての人生に分けられるような気がします」と分析、「俗人の生前指示についても書いておきたい。相続、告別式の手配等です」と記した。

 その分析通り、60歳以降、日本将棋連盟の要職に就いてからは、数々の改革を断行した。05年、61年ぶりの棋士編入試験実施による、瀬川晶司アマのプロ入り▽08年からの名人戦を毎日、朝日両新聞社の共催に▽将棋連盟の公益法人への移行−−。いずれも、米長さんの強力なリーダーシップで実現した。

 弁も立ち、文章もよくした。財界人、文化人、さらに芸能人と交友範囲も幅広く、盤外での活動も注目を浴びた。99年から07年まで東京都の教育委員を務め、教育問題についても発言。また、数多くの米長語録を残した。代表的な一つが「私は菜の花のようなもの。トウがたってから実を結ぶ」。49歳11カ月で悲願の名人を獲得した翌日(93年5月22日)。名人にかけた思いと、大願成就した気持ちを表現し、熟年世代を勇気付けた。

◇谷川九段「著書はバイブル」

 同一カード歴代最多の187局を戦い、タイトル戦で名勝負を繰り広げた中原誠十六世名人(65)は「容体が悪いとは聞いてましたが、こんなに早く亡くなるとは」と驚き、「ライバルと言われ、ずいぶんタイトル戦で戦いました。その頃を思い出しながら、哀悼の意を表したいと思います」としのぶ。

 日本将棋連盟専務理事の谷川浩司九段(50)は「公式戦で60局以上教わりました。名著『米長の将棋』シリーズは十代の私のバイブルでした」と振り返り、「1年半、役員としてもご一緒しましたが、行動力と発想の柔軟さにはいつも感心させられました。もっと教わりたかった、と残念でなりません」。

 94年、自身初の名人位を争った羽生善治王位(42)は「『相手にとって重要で自分にとって無関係な一局こそ全力を尽くす』という哲学は将棋界の要。いつも周囲を明るくし、対局や連盟の運営に打ち込まれていました。鬼気迫る姿からたくさんのことを教えていただきました」とした。

 連盟の常務理事として05年度から6年間、ともに働いた淡路仁茂(ひとしげ)九段(62)は、「『理事は悪者になれ、矢面に立つくらい仕事をしろ』と常々おっしゃっていました」と印象的な場面について語る。

 ◇内藤九段「粘っこさ泥沼流」

 タイトル戦をはじめ計69局を戦い、親交の深かった内藤国雄九段(73)は、「『さわやか流』と呼ばれていた棋風を、私がテレビで『粘っこさは泥沼流』と言ったら、怒るどころか気に入り、本のタイトルにまでしてしまいました。日本人には珍しいユーモアのある男で、ウマが合いました。1年ほど前、自身の(前立腺)がんのことをまとめた本を、『内藤さんも気をつけなよ』とくれたとき会ったのが最後でした」と驚いていた。

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 ◆米長永世棋聖のタイトル履歴◆

【名人】1期(第51期−1993年)

【十段】2期(第23期−1984年度〜24期)

【王位】1期(第20期−1979年度)

【棋王】5期(第4期−1978年度・6〜9期)

【棋聖】7期(第22期−1973年度前・36期・43〜47期)=永世棋聖

【王将】3期(第32期−1982年度〜33期・39期)

登場回数合計 48回

獲得合計   19期






名指しで失礼。

米長。

負けてもなお華ある棋士でした。
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