「メガトレンド」を追いかけ、「5分後の未来を展望する」ことを理想します。

フィリピンの歴史

◆仏教、ヒンドゥー教
西暦300年から700年頃には、東南アジアの島々では海洋民族が活躍しており、インド文化圏の仏教やヒンドゥー教の影響を受けていたと見られる。現代フィリピンのタガログ語にもサンスクリット語を語源とする単語が多い。

古代のフィリピンに関する情報は、東南アジア諸地方の中でも非常に少ない。

◆イスラム教
明の時代には歴史的交流のあった同じ海洋国家のマライ人系商人らを通じ、一部のルソンの人々はイスラム教を取り入れていた。14世紀後半には、中国~東南アジア~インド~中東を繋ぐ航路上で海上交易を行っていたイスラム商人の影響でフィリピン諸島にもイスラム教が広まる。

◆スペイン・カトリック
フィリピンに到達した初のスペイン人は1521年のマゼラン率いるスペイン船団である。部族長たちに対してスペイン王への服属および朝貢とキリスト教に改宗したセブ王への服従ならびにキリスト教への改宗を要求。イスラムの部族長ラプ=ラプはこれを拒絶した。マゼランは激怒し、1521年4月27日、ラプ=ラプ討伐のためマクタン島へ軍を派遣した。ラプ=ラプ軍は甲冑で身を固めたスペイン兵の足が無防備なことを見抜くなど、巧みな戦術によってマゼラン軍を破り、ついにマゼラン本人を殺害した。スペインは1529年にフィリピンの領有をサラゴサ条約をもってポルトガルに認めさせた。1565年、ミゲル・ロペス・デ・レガスピ遠征隊がメキシコからセブ島に到着し占領、植民基地を作った。本格的な支配を開始できたのはフアン・デ・サルセードらによる1570年のマニラ征服と1571年のマニラ市の設置からだった。スペイン入植後、浸透した貨幣経済によって原住民はたちまち居住地を借金の代わりに取り上げられ、スペインからの入植者も増えた。1578年には近隣の有力なイスラム国だったブルネイがスペインに破れたことでイスラム勢力の力が弱まり、1587年にマニラ近郊で首長が反乱を計画したものの、翌年発覚して数名が絞首刑後晒し首となっている。

◆中国、日本、黒人
ガレオン貿易の進展に伴って中国人や日本人が移住し、また、黒人がヌエバ・エスパーニャから連行され、マニラ城外に居住区を築いた。特に中国人はガレオン貿易とフィリピン植民地経営に当たって決定的に重要な役割を果たした。1637年には中国人の人口は約2万人に達し、17世紀から18世紀にかけてフィリピン総督による弾圧もあったものの、中国人は現地人女性と通婚してメスティーソ(混血)と呼ばれる社会階層を築きあげ、フィリピン社会に同化した。18世紀半ばの三度に及ぶ中国人追放令発令後、中国系メスティーソは地方の商業に進出したが、19世紀のマニラ開港後は総督府の中国人移民奨励の影響もあって新規に移民した中国人商人が在来の中国系メスティーソに代わった。

◆スペインvs現地人[イスラム・カトリック]
スペイン人はフィリピン植民地化の過程で、フィリピン諸島全土を植民地化できた訳ではなかった。特に南部のホロ島やミンダナオ島のムスリムはスペイン人に対して頑強に抵抗し、300年以上に渡ってモロ戦争と呼ばれるスペインとイスラーム勢力との間の抗争が続けられた。また、スペイン支配地域でもカトリック化した原住民の反乱が相次いだ。

◆オランダ
17世紀に入ると、政治的にスペインと対立し、東アジアへの進出が盛んだったオランダ連合東インド会社によるフィリピン攻撃が1610年、1660年と断続的に行われた。

◆華人
1603年には、マニラで最初の華人反乱が起きている。1621年から1621年にかけてBankaw Revoltが起こった。

◆イギリス
18世紀に入ると、七年戦争の最中の1762年にそれまでフィリピンとの密輸を続けていたイギリス東インド会社によってマニラが占領された。イギリス人は1764年にフィリピンから撤退した。

◆スペインvs現地人[イスラム]
スペインとイスラーム勢力の間でモロ戦争が継続される中、ホロに都を置いたスールー王国は19世紀に入るとスペイン当局やマカオのポルトガル商人、シンガポールとの交易で栄え、1840年代にはアメリカ合衆国、イギリス、フランスと通商条約を結んだ。スペインはスールー王国に対し、1848年から断続的に攻撃をしかけ、1876年のホロ攻略後、1878年に講和を結び、以後はミンダナオ島の攻略に取り掛かった。スペインは1880年代にはミンダナオ島のブアヤン王国との戦争を激化させたが、植民地時代の終焉までスペインがミンダナオ島を完全に支配することはできなかった。

◆自由思想
貿易の自由化に伴うアメリカ合衆国やイギリスとの貿易の拡大は、18世紀以来の高等教育の拡充と合わせて19世紀には自由主義思想がフィリピン原住民の間にも流入した。フィリピンにおけるナショナリズム形成の重要性を感じた留学生、知識人は、徐々に本国政府への改革要求を強め、民族運動を展開していった。

◆米西戦争
1898年にハバナで起きた米戦艦メイン号の謎の爆沈事件をきっかけに、アメリカ合衆国がキューバ独立戦争に介入、4月に米西戦争が勃発する。アメリカはフィリピンの独立に全面協力することを条件に、香港へ亡命していたアギナルドに米西戦争に協力しフィリピン上陸の案内をするよう要請。アギナルドはこれを受け入れ、5月にアメリカ艦隊と共にフィリピンに帰国し独立運動を再開、同1898年6月12日に現カウィットの自宅にてフィリピンの独立を宣言した(現在も6月12日は独立記念日とされている)。同年8月13日、米軍とともにマニラにあったスペイン総督府を陥落させスペインとの戦闘を終結。9月15日にはブラカン州マロロスで革命議会を開催した。

◆米比戦争
キューバ、プエルトリコを電撃的に攻略されたスペインは、1898年12月10日にアメリカとパリ講和条約を締結する。スペインはアメリカにフィリピンの領有権を約2000万ドルで譲渡。アメリカ大統領ウィリアム・マッキンリーは「フィリピン群諸島は合衆国の自由なる旗のもとに置かれなければならない」とする声明を発表したが、アギナルドをはじめフィリピン国民は一斉に激しく抗議。アメリカ合衆国との間に米比戦争が勃発する。翌1899年1月23日にアギナルドはマロロス憲法を公布しフィリピン共和国(第一次共和国)を樹立、初代大統領に就任した。1900年には当時の首都マロロスが陥落し正規軍は解散、ゲリラ戦を展開するが、翌1901年3月、イサベラ州パラナンでアギナルドは米軍に捕らえられアメリカの主権を認めざるを得なくなった。1902年までにアメリカ軍がフィリピン主要部を占領し、アメリカ合衆国の植民地となった。「フィラデルフィア・レジャ」紙は、米比戦争の二年間でルソン島住民の六分の一が殺されたと当時報道しており、これは約61万6000人にのぼる。

◆フィリピン全土平定
米軍は、スペイン主権下に入っていなかった南部のムスリムに対しても戦争を続け、1915年にはスールー王国とカーペンター=キラム協定を結んでアメリカ合衆国の主権を認めさせ、フィリピン全土を平定した。1916年に米国議会でジョーンズ法(フィリピン自治法)を可決。同法では将来の独立が宣言され、上下二院の立法権を持つ議会の整備や、総督以外の行政機構、閣僚のフィリピン人化が進んだ。
1935年5月には憲法が批准され、同年9月に行われた選挙によってマヌエル・ケソンを大統領とした米自治領政府(独立準備政府)フィリピン・コモンウェルスが成立した。ケソン政権下ではアメリカ軍のダグラス・マッカーサー元参謀総長によってフィリピン軍が創設されたが、機能するには程遠かったために、1938年2月にケソンは日本に対してフィリピンの中立化を布告した。

◆日本軍の上陸
1941年12月8日に日本が米英に宣戦布告し太平洋戦争が勃発すると、南方作戦の一環として第14軍がフィリピンに上陸し、1942年1月2日に日本軍はマニラを占領した。その後、4月にバターン半島、5月にコレヒドール島の米比軍を降伏させ、翌5月7日にアメリカ極東陸軍(ユサフェ)の全軍が降伏を宣言した。
既にダグラス・マッカーサーと共にオーストラリアに逃亡していたマヌエル・ケソン大統領は、その後アメリカ合衆国に渡ってワシントンにて亡命政府を建てた。日本は従来までの統治機構を出来る限り活用しようとしたが、政治的決定の多くは日本に委ねられていた。

◆フィリピン第二共和国
日本は民心を回復するために、1943年10月14日、ホセ・ラウレルを大統領とするフィリピン第二共和国の独立を認めた。日本はラウレル政権と同盟条約を締結し、形式面では日本の軍政期が終わった。ラウレル大統領は11月に東京で開催された大東亜会議に出席している。
しかし、ラウレル政権はフィリピン民衆の広範な支持を得ることができなかった。さらに、ラウレル政権は戦前からの地主支配の継続を認めたためにフィリピン親日勢力の離反を招き、ラウレル政権側も日本との協力を拒否する姿勢をとったため、日本は1944年12月にベニグノ・ラモスとアルテミオ・リカルテをはじめとするフィリピン独立運動家達によって設立されたフィリピン愛国連盟(マカピリ)を新たな協力者とした

◆連合軍によるフィリピン奪回
1944年10月20日にアメリカ軍がレイテ島に上陸し、続くレイテ沖海戦でも日本軍を破った。 1945年1月にはマニラ大虐殺が発生。1945年2月3日からはマニラ市街戦が開始され、3月3日に、米軍はマニラを制圧する。さらにルソン島北部に敗走する日本軍を追いつめ、9月3日に日本軍は降伏した。
戦時中のレイテ作戦でアメリカ軍と共にフィリピン帰還を果たしたフィリピン・コモンウェルスのセルヒオ・オスメニャ大統領に権力が戻り、米自治領政府(コモンウェルス)が復活した。

◆フィリピン第三共和国
第二次世界大戦後、1946年4月の選挙で地主を母胎にした国民党、労働運動とフクバラハップを母胎にした民主同盟との選挙戦を制した対日協力者を母胎とする保守派の民主党が勝利し、マヌエル・ロハスが新たに大統領に選出された。同年7月4日、フィリピンは主権を獲得し、第三共和国が成立した。

同1946年にはフィリピン航空が民間としてアジアで初めて太平洋横断する運航を開始。しかし、第三共和国は経済的に合衆国に依存する構造は変わらず、軍事的にも1947年に締結された比米軍事基地協定によって冷戦構造の中で合衆国の反共主義の前線基地として位置づけられ、実質的な独立を達成できなかった。

◆フクバラハップとの内戦
戦後共和国政府は徹底してフクバラハップを敵対視し、1948年3月にはロハス政権によってフクバラハップと全国農民同盟は非合法化され、ルソン島では政府軍と地主の私兵とフクバラハップとの間で戦闘が繰り広げられた。ロハスの死後、政権を継いだエルピディオ・キリノ政権はフクバラハップとの和平交渉を行ったが、交渉は決裂した。フクバラハップは首都攻略を噂されるほどの大勢力となっていたが、これに脅威を抱いた合衆国はフィリピン政府への軍事援助を強化し、ラモン・マグサイサイ国防相による討伐作戦によって1950年10月には共産ゲリラの司令塔だったフィリピン共産党 (PKP)が壊滅し、翌1951年にはフクバラハップそのものも実質的に壊滅に追い込まれた。

◆マグサイサイ政権以降
1953年11月にフクバラハップ討伐の功績が評価されたことにより、国民党のマグサイサイが大統領に当選した。この年、ABS(現在のABS-CBN)がテレビ本放送を開始。
マグサイサイ政権はフクバラハップへの支持の源泉が大土地所有制にあることを見抜き、農地改革を推進したが、1955年に制定された農地改革法は抜け道の多い不徹底なものに留まり、1960年のセンサスでは1948年よりも小作農の数が増加した。このため、1963年にディオスダド・マカパガル大統領も農地改革法を制定したが、この改革法も実効性に乏しく、却って農村部での階級対立を激化させる作用をもたらした。

1956年には日比賠償協定が調印され、日比国交が回復した。1957年にはマグサイサイ大統領が事故死。後継はカルロス・ガルシアがなった。1961年、ディオスダド・マカパガルが大統領に当選。独立記念日をそれまでの7月4日から6月12日に変更。

◆マルコス政権
1965年に国民党から大統領に就任したフェルディナンド・マルコスは、強権政治の下でフィリピンを統治した。1966年、ABS-CBNがカラーテレビの本放送を開始。
1968年には毛沢東主義に基づくフィリピン共産党 (CPP) が再建され、翌1969年3月には軍事部門の新人民軍(通称NPA,New Peoples Army)を結成してゲリラ戦を開始し、南部でもムスリムが1970年にモロ民族解放戦線を結成し、ミンダナオ島で反乱を開始した。
1969年に腐敗選挙で再選されたマルコスは両組織の反乱を理由に1972年に全土に戒厳令を敷き、新社会建設を掲げて議会の閉鎖、既存支配層の排除、軍隊が政府機能を掌握した。マルコス政権による農地改革は実効性を持ち、自作農が創設され、米の自給もある程度可能になるなどの成果もあり、外国資本の積極導入を柱とした経済政策により1970年代を通して年率6-7%のGNP成長を達成した。
1975年、マルコス訪中し、中国(中華人民共和国)と国交樹立。1976年にはソ連と国交樹立。モロ人民解放戦線と暫定和平協定。

◆エドゥサ革命
マルコスとイメルダ・マルコス夫人をはじめとした取り巻きによる政治の私物化と腐敗政治が進み、対外債務の膨張が財政を逼迫させるなど徐々に政権は危機的な様相を帯びてきた。1981年に戒厳令は解除されたが、1983年に政敵の元上院議員ベニグノ・アキノがマニラ空港(現在のニノイ・アキノ国際空港)で暗殺された。これは反体制派の怒りを増した。こうした国民の不満の爆発を受け、1986年2月の選挙をきっかけにエドゥサ革命が勃発し、マルコス夫妻はハワイに亡命、1989年にハワイで死去。

新たに大統領に就任したコラソン・アキノは7度のクーデター未遂に見舞われ1989年には軍反乱事件が起き、アキノ政権はアメリカ軍の助力を得てクーデターを鎮圧した。

1990年 ルソン島中部でバギオ大地震が発生し、多数の死傷者がでる。1991年にはピナトゥボ火山が噴火し、この事件をきっかけにフィリピンからアメリカ軍は基地を撤収した。

1992年に大統領に就任したフィデル・ラモスは新自由主義的な民営化政策と規制緩和を徹底し、経済成長率の上昇を実現したが、他方でこの経済成長は雇用を拡大せず、出稼ぎに依存するフィリピン経済の性格は維持された。同年、米軍撤退完了。
1995年には各地の軍事反乱が終息し、1996年モロ人民解放戦線と和平協定が締結。1997年にはディオスダド・マカパガル死去。
1998年、ジョセフ・エストラーダが大統領就任するが、2000年下院、エストラーダ大統領を弾劾。市民デモ(ピープルパワー)が活発になり、2001年 第二人民革命が起きる。
2004年 グロリア・アロヨ、大統領選挙で当選。しかし、その後アロヨは選挙の不正を認め国民に謝罪。2005年にはスビク湾の婦女暴行事件で、駐留米兵4人逮捕。付加価値税の引き上げ。
2010年、 ベニグノ・アキノ3世が大統領就任。






フィリピンは東アジアと南アジアの中間にあり、島国ということと相まって、多くの影響を受けてますね。
インドからは仏教・ヒンドゥー教。
その後イスラム教。
スペインからはカトリック。
多文化、多種の価値観には慣れています。
支配の歴史が長かったので自己主張は強くなく、長いものには巻かれるタイプが多い。

気候は熱帯に近く亜熱帯。暑いことは暑いですが25度~35度と働くにはちょい暑いほどで、働けなくもない。
通年で食糧が取れ、生きて行く分には申し分ない。
多文化と付き合っていたこともあってか、手先が器用で、機転も効くようになる。
文字通りの「生存」に関しては機智が働く。
ただ思考は長く続かず、先を展望したり、問題を発見し解決・改革を断行しようという気概に欠ける面がある。

多くの価値観が混ざり、敵対を避けるためか、自分に都合のいい選択をする傾向がある。

逆に特定の文化が深く根ざすことはない?
どの価値観からも絶対的に必要とみなされることもない。




まだまだ不足はあると思いますが歴史からはこんな感じが読み取れるでしょうか。

常に今に囚われている国という印象です。
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