「メガトレンド」を追いかけ、「5分後の未来を展望する」ことを理想します。
八幡宮の総本社は宇佐八幡宮。八幡造という建築法で、国宝認定らしい。

ということを聞いてなんとなく気になっていた宇佐。
行ってきました。見てきました。
行く前。
八幡宮ってよく聞くけど、なんだかよくわからん。
でも。そんな凄い宇佐八幡宮は行けば凄さが分かる!と思ってました。

でもね。行って益々訳が分からなくなりました。




まず宇佐八幡宮ではなく宇佐神宮だった。
神宮
wikiを見ると勝手に名乗っているっぽいので、自己を大きく見せようとしているのでしょう。

次に祭神

主祭神は以下の3柱。
一之御殿:八幡大神 (はちまんおおかみ) - 誉田別尊(応神天皇)とする
二之御殿:比売大神 (ひめのおおかみ) - 宗像三女神(多岐津姫命・市杵島姫命・多紀理姫命)とする
三之御殿:神功皇后 (じんぐうこうごう) - 別名として息長足姫命とも
いずれも上宮・下宮の両方に祭られている。



これは事前に学習済。

境内のご案内
画像

実際に行ってみて違和感。
あれ?おかしくね。

上宮というのが、有名な画像と一致します。
画像の手前から一之御殿、二之御殿、三之御殿。
有名な南中楼門の向かいが二之御殿なんです。
えっだってここ八幡宮でしょ。八幡様がメインじゃないの?二之御殿、比売大神が主祭神なの?
なんだこれおかしくねえか。
比売大神って誰よ。

比売神
アマテラスとスサノオとの誓いで誕生した宗像三女神、すなわち多岐津姫命(たぎつひめのみこと)・市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)・多紀理姫命(たぎりひめのみこと)の三柱とされ、筑紫の宇佐嶋(宇佐の御許山)に天降られたと伝えられている[3]。宗像三女神は胸形氏ら海人集団の祭る神であった。それが神功皇后の三韓征伐の成功により、胸形氏らの崇拝する宗像三女神は神として崇拝を受けたと考えられる。また、八幡神の顕われる以前の古い神、地主神であるともされている[1]。比売神は八幡神の妃神、伯母神、あるいは母神としての玉依姫命(たまよりひめのみこと)や、応神天皇の皇后である仲津姫命 (息子である麛坂皇子と忍熊皇子は反乱により戦死)や弟姫《(誉屋別皇子の実母で別名を比売后(ひめごう)〈bi mài hòu〉つまり卑弥呼の日本名》だったとする説がある。[3]。「東大寺要録」や「住吉大社神代記」に八幡神を応神天皇とする記述が登場することから、奈良時代から平安時代にかけて応神天皇が八幡神と習合し始めたと推定される[3]。近年では比売神はヒミコでありアマテラスであるという異説やシラヤマヒメという異説も登場している。



何だか諸説あるみたい。百歩譲って宗像三女神だとして、そこまで重要な理由が分からない。

天照大神が国つくりの前に、宗像三神に「宗像地方から朝鮮半島や支那大陸へつながる海の道は降って、歴代の天皇をお助けすると共に歴代の天皇から篤いお祭りを受けられよ」と示した。このことから、三女神は現在のそれぞれの地に降臨し、祀されるようになった。
海の神・航海の神として信仰されている。宗像大社のほか各地の宗像神社・厳島神社・八王子社・天真名井社で祀られている。



宇佐は海には近くないように見えますが。
https://goo.gl/maps/wX8CU

さらにこの宇佐神宮のつくりは八幡造という独特のもの。
画像
説明

流れ造りが二つくっついています。
説明によると、

奥殿を「内院」・前殿を「外院」といいます。内院には御帳台があり、外院には御椅子が置かれ、いずれも御神座となっています。御帳台は神様の夜のご座所であり、椅子は昼のご座所と考えられています。神様が昼は前殿、夜は奥殿に移動することが八幡造の特徴です。



神様が昼夜移動するそうです。そんな話を聞いたことがない。
今まで色んな場所で色んなつくりの神社を見ましたが、ちょっと奇天烈すぎる。
肝心の二之御殿の前に申殿。
申殿って何?拝殿とは違うの?
で結局。
内院-外院[三之御殿]     -門
内院-外院[二之御殿]-申殿-南中楼門
内院-外院[一之御殿]     -門

このつくりもおかしくないですか。見ようによっては二之御殿が厳重に守られているようです。
日本の神社で見ることがある封印の一種でしょうか。

参考 出雲大社御本殿と天井八雲之図の謎




さらに混乱は続く。

八幡大神ゆかりの伝承_鍛冶翁
欽明天皇の29(569)年、宇佐神宮境内の菱形(ひしがた)池のほとりの泉のわくところに、ひとつの身体に八つの頭という奇異な姿の鍛冶をする翁があらわれて、この姿を見た者はたちまち病気になったり死んだりしました

大神比義(おおがのひぎ)が見に行くと老人の姿なく、かわりに金色の鷹(たか)が見えました。比義が『誰かによって鷹に変えられたのか、自分の意志で鷹になったのか』と問うと、鷹は金色の鳩(はと)となって比義の袂の上にとまりました。
神が人を救済されようとして自ら変身されたことを知った比義が、3年あまり断食をして祈り続けたところ、ついに欽明天皇32(571)年2月初卯の日に、この泉のかたわらの笹の上に光かがやく3才の童子があらわれわれは誉田の天皇広幡八幡麿(ほんだのすめらみことひろはたのやはたまろ)なり。わが名は護国霊験威力神通大自在王菩薩(ごこくれいげんいりょくじんつうだいじざいおうぼさつ)で、 神道として垂迹せし者なり』と告げられました。

そしてたちまち黄金の鷹になって駅館川(やっかんがわ)の東岸の松の上にとどまったといわれます。 そこに和銅元年(708)鷹居社をつくり八幡さまを祀り、のち霊亀2年(716)小山田の林に移られ、ここに小山田社を造営。神亀2年(725)年に現在の社地、亀山(かめやま)(菱形(ひしがた)山とも小椋(おぐら)山ともいう)に移されて八幡大神様が鎮座されたのが宇佐神宮の創立です。



突っ込みどころが満載過ぎてもはやどうしていいかわからない。
これを縁起にしてしまっていいんですか?
これが全国八幡宮の総本社の正しい歴史ですか。

よくわからず世間に災いを招いた翁はどこへ?
大神比義はなぜ断食をした?
誉田の天皇を仮に応神天皇と同一とした場合、応神天皇の年齢によると、応神天皇は西暦200~310年くらいの人で、ざっと見積もっても570年くらいの人ではない、ということです。
つまり誰だかわからないけど、誰かが「私は誉田の天皇です。神様ですよ」と言ったのです。それを最もなことだと信じたということです。
この人(?)、災いをもたらしたにしろ、何もいいことしてないですが。
さらにさらに元となった人物の応神天皇。この人の足跡も何一つ現代に残っていませんけど。

これでどこが武神なの?母親の神功皇后の方がよほど勇ましいですが。

見れば見るほどなんで祭られているのか混乱してくるんですけど。
これだけ根拠弱くてなぜ全国に広まるのか。
この国の形はよくわからない。




タイムマシンがあれば、なぜ八幡宮が日本で定着したのか、追いかけたいですわ。
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