「メガトレンド」を追いかけ、「5分後の未来を展望する」ことを理想します。
北部九州を旅しました。

長崎市(43万人)から佐賀市(23万人)へ入ると、空が開け、明るい印象に。

人口密集度は下がり、平地が開け田園風景が目に入ります。

う~ん、確かに農業県。九州では少なめの平地。拠点とするには適した地形かもしれないです。

駅から県庁へ向かうと、学生風の若者も何人か同じ方角へ。

たどり着いたのは公務員ゼミナール

北部九州では公務員の就職プライオリティ高いんですね。

農業、建設業、公務員というような選択肢なのでしょうか。

佐賀県民性




肥前と聞くと、龍造寺隆信・鍋島直茂を思い浮かべるのですが、

地元では鍋島直正の評価が高いようで。

佐賀城本丸歴史館
徴古館
直正絡みの展示が多かったです。

佐賀県立博物館
こちらはさすがに中立でした。




あと驚いたのが佐嘉神社

祭神
佐賀藩10代藩主鍋島直正と11代藩主鍋島直大を祀る。



祭神はそのまま鍋島直正。

明治以降で個人を祭神にする神社はあまり見ないです。

日本史上ではほとんど名前の挙がってこない方ですし。

すぐ横には松原神社があり、こちらは以下の通り。

松原神社
松原神社(まつばらじんじゃ)は、佐嘉神社境内にある神社である。
安永元年(1772年)、鍋島家の始祖鍋島直茂を祀る神社として創建され、
直茂の法号から日峯(にっぽう)大明神(日峯宮)と称した。
現在も「日峯さん」の通称で呼ばれる。この時代には、各藩で藩祖・祖先を祀る神社が創建されていた。
文化14年(1817年)に直茂の祖父・清久、直茂の正室・彦鶴姫を合祀した。
明治5年、初代藩主・勝茂を合祀し、「松原神社」に改称した。
明治6年(1873年)、元からあった本殿の北と南に新たに神殿を造営し、
南殿に10代藩主鍋島直正を、北殿に鍋島氏以前に佐賀を治めていた龍造寺家の隆信・政家・高房を祀った
元からあった本殿は、これ以降「中殿」と称されるようになった。
大正12年(1912年)、南殿に、2年前に歿した11代藩主鍋島直大を合祀した。

昭和8年に佐嘉神社が造営され、南殿の鍋島直正の霊を遷座した。
昭和23年、南殿の鍋島直大の霊も佐嘉神社に遷座し、南殿は廃止された。
昭和38年、松原神社本殿を改築し、中殿・北殿を一つにした。



佐嘉神社と合わせて結構な変遷です。

さらにいうと佐嘉神社は南面しているのですが、松原神社は東面です。

改築前の松原神社がどうなっていたのか不明ですが、差をつけている気がします。




薩長土肥として幕末の雄藩に数えられる佐賀藩。その当主として改革を指揮した直正なのですが、
評価されたのはその先見の明でしょう。西洋の技術を取り入れるべく技術研究したのが
評価されて雄藩に数えられたのではないでしょうか。

佐賀藩精煉方・多布施反射炉跡
鍋島直正

雄藩と数えられていますが、明治維新への貢献は少なく、全国的な知名度の人材も少ない。

実は当時も佐賀は評価が低かったのではないでしょうか。

第26話 アームストロング砲
会津の鶴ヶ城は何故アームストロング砲の猛撃に一ヶ月原型を保ったまま持ちこたえる事出来たのは?
佐賀藩のアームストロング砲

著名なのがアームストロング砲。当時の佐賀藩の武力は日本最高らしいですが、それに見合った赫奕たる戦果は見えません。

現代の観測記事も推測が多めの感じで。

実際佐賀藩が凄ければ、もっと喧伝されていても良さそうなものですし、明治維新の内閣に食い込んだ人材も多そうなものです。

となると『佐賀は名ばかり』という評価だったのではないかと。

(上辺をざっと見ただけの感想なので、間違っている可能性は高いです)

でもそう考えると、佐賀の乱とか個人的にはしっくり来るんです。




明治維新に活躍した藩は薩長土肥と習いますが、佐賀の肥前藩はどんな活躍をしましたか?
佐賀の乱
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