「メガトレンド」を追いかけ、「5分後の未来を展望する」ことを理想します。


中東戦争

パレスチナは長い間イスラーム国家の支配下に置かれていたが、この地に居住するイスラム教徒とユダヤ教徒・キリスト教徒の三者(人種的には全てアラブ人)は共存関係を維持してきた。しかし20世紀初頭オスマン帝国が第一次世界大戦に敗れると、帝国が支配していたパレスチナはイギリスの委任統治領として植民地化された(イギリス委任統治領パレスチナ)。このころすでにドレフュス事件などの影響もあり、ヨーロッパではパレスチナ帰還運動(シオニズム)が起こっていた。ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国で離散生活をしていたユダヤ人によるパレスチナ入植がはじまった。パレスチナを統治しているイギリスは、はじめ入植を規制しなかった。

1948年5月14日、イギリスによるパレスチナ統治終了の日に、ユダヤ人はイスラエル建国を宣言した(イスラエル独立宣言)。しかし翌日には、分割に反対する周辺アラブ諸国がパレスチナへ侵攻し、第一次中東戦争が勃発・多くのパレスチナ難民も発生した。

1948年5月14日、イスラエルが独立を宣言すると、これに反対する周辺アラブ諸国(エジプト、サウジアラビア、イラク、トランスヨルダン、シリア、レバノン、その他パレスチナのアラブ人部隊など)がパレスチナへ進軍した。アラブ側の兵力は約15万以上、イスラエル側の兵力は3万弱といわれている。数で優勢なアラブ連合軍はイスラエルを包囲する形で進軍したが、各国間の不信感から連携がうまくいかず兵士の士気も低かった。緒戦はその物的優位によりアラブ連合軍が善戦する。しかし、二度の休戦期間の間に、イスラエル軍は部隊を強化することに成功した。アラブ諸国の足並みの乱れもあり、ヨルダン方面を除き、戦況は次第にイスラエル優位になった。そして、イスラエル優位のまま1949年6月、双方が国連の停戦勧告を受け入れた。

1956年にエジプトで、イギリス・アメリカによるアスワン・ハイ・ダムの建設が中止になったため、当時のエジプト大統領ナセルは7月、対抗手段としてスエズ運河の国有化を発表した。スエズ運河運営会社の株主でもあり、石油を含む貿易ルートとして、スエズ運河を利用するイギリス・フランス両国はこれに反発した。そのため、10月、イスラエルを支援してエジプトとの戦争を煽動し、自らは仲裁の名目で介入した。

ゴラン高原におけるユダヤ人入植地の建設を巡ってアラブ側とイスラエルとの間で緊張が高まりつつあった1967年6月5日、イスラエルはエジプト、シリア、イラク、ヨルダンの空軍基地に先制攻撃を行なった。第三次中東戦争の始まりである。緒戦でアラブ側は410機の軍用航空機を破壊された。制空権を失ったアラブ諸国は地上戦でも敗北し、イスラエルはヨルダンのヨルダン川西岸地区・エジプト(当時アラブ連合共和国)のガザ地区とシナイ半島・シリアのゴラン高原を迅速に占領した。

この後、イスラエルとエジプトは完全な停戦状態になったわけではなく、「消耗戦争(英語版)」と呼ばれる散発的な砲爆撃を行う状態が、1970年まで続いた。

1973年10月6日、エジプトが前戦争での失地回復のため、シリアとともにイスラエルに先制攻撃をかけ、第四次中東戦争が開始された。なお、アラブ各国はこの戦いを有利に展開するため、イスラエルを援助する西側諸国に対して石油戦略を発動し、世界でオイルショックを引き起こした。



アラブ世界だった中東にユダヤ人が無理矢理入ってくれば喧嘩も起きますね。

中東戦争の勃発は理解できます。




イラン革命

パフラヴィー朝下のイランは石油国有化を主張してアメリカの干渉政策と皇帝によって無念のうちに失脚させられた1953年のモハンマド・モサッデク首相失脚後、ソビエト連邦の南側に位置するという地政学的理由もあり、西側諸国の国際戦略のもとでアメリカ合衆国の援助を受けるようになり、脱イスラーム化と世俗主義による近代化政策を取り続けてきた。
イラン国民のなかには政府をアメリカの傀儡政権であると認識するものもいた。パフラヴィー皇帝は自分の意向に反対する人々を秘密警察によって弾圧し、近代化革命の名の下、イスラム教勢力を弾圧し排除した。
1978年1月、パフラヴィーによって国外追放を受けたのちフランス・パリに亡命していた反体制派の指導者で、十二イマーム派の有力な法学者の一人であったルーホッラー・ホメイニーを中傷する記事を巡り、イラン国内の十二イマーム派の聖地ゴムで暴動が発生。その暴動の犠牲者を弔う集会が、死者を40日ごとに弔うイスラム教の習慣と相まって、雪だるま式に拡大し、国内各地で反政府デモと暴動が多発する事態となった。
皇帝側は宗教勢力と事態の収拾を図ったが、9月8日に軍がデモ隊に発砲して多数の死者を出した事件をきっかけにデモは激しさを増し、ついに公然と反皇帝・イスラム国家の樹立が叫ばれるようになった。11月、行き詰まった皇帝は、国軍参謀長のアズハーリーを首相に起用し、軍人内閣を樹立させて事態の沈静化を図ったが、宗教勢力や反体制勢力の一層の反発を招くなど事態の悪化を止めることができず、反皇帝政党である国民戦線のバフティヤールを首相に立てて、翌1979年1月16日、国外に退去した。
バフティヤールはホメイニーと接触するなど、各方面の妥協による事態の沈静化を図ったが、ホメイニーはじめ国民戦線内外の反体制側勢力の反発を受けた。2月1日、ホメイニーの帰国により革命熱がさらに高まり、2月11日、バフティヤールは辞任、反体制勢力が政権を掌握するに至った。
4月1日、イランは国民投票に基づいてイスラム共和国の樹立を宣言し、ホメイニーが提唱した「法学者の統治」に基づく国家体制の構築を掲げた。

革命の特徴
第一に、この革命がまったく民衆自身によって成就されたことである。
第二に、伝統的な宗教であるイスラムを原動力にしていることである。

イスラム共和国体制は、アメリカ合衆国政府が背後から支援して樹立した、アメリカ合衆国政府の傀儡政権だったパフラヴィー朝を打倒したので、アメリカ合衆国から敵視された。




スンナ派
イスラームという宗教が生まれて間もない初期のころ(正統カリフ時代)に、預言者の後継者(ハリーファ(カリフ))を誰にするかという問題において、ムハンマドの従兄弟かつ娘婿であるアリーとその子孫のみがイマームとして後継者の権利を持つと主張したシーア・アリー(「アリーの党派」の意。後に略されて「シーア」、すなわちシーア派となる)に対し、アブー・バクル、ウマル、ウスマーンのアリーに先立つ三人のカリフをも正統カリフとして認めた大多数のムスリム(イスラーム教徒)がスンナ派の起源である。



シーア派
7世紀のカリフであったアリー[1]とその子孫のみが、預言者の資格を持ち、「イスラム共同体(ウンマ))」の「指導者(イマーム)」の職務を後継する権利を持つと主張する。



個人的にスンナ派とシーア派の色が不明確だったのですが。
つまるところ、スンナ派シーア派って権力争いですか。
スンナ派はそれなりの権威があればだれでもイマームになれる。
シーア派はアリーの子孫でなければイマームになれない。
でアリーの子孫は不在。

結果、スンナ派の指導者は国をまとめるのに独裁者になりやすく、
対してシーア派はスンナ派に対抗するため民主主義をとる。

独裁vs民主主義だとしたら、相容れるはずないですね。




イラン・イラク戦争

イランでは1979年にシーア派によるイスラム革命があり、親米のパーレビー政権が倒れ、ホメイニーの指導下、周辺のアラブ諸国とは異なる政治体制「イスラム共和制」を敷き、君主制中心の周辺アラブ諸国の警戒感を強めたが、イラン国内の混乱が増し、保守派の粛清のために軍事系統にも乱れがあると見られ、これは敵対する周辺国にとっては好機であった。
一方、イラクではサッダーム・フセインが政権を掌握して反対派を粛清。強固な独裁制を確立し、軍備を強化していった。

イラクの奇襲
1980年9月22日未明、イラク軍が全面攻撃を仕掛け、イランの10の空軍基地を爆撃、イラン軍がそれを迎撃するという形で戦争は始まった。
特にクウェートはペルシア湾の対岸にイランを臨むことから、積極的にイラクを支援し、資金援助のほか、軍港を提供するなどした。
ソ連、フランス、中華人民共和国は1980年から1988年までイラクの武器輸入の90%を占めた[3]。
全般的には劣勢であり、時にはイラン兵の死体が石垣のように積み重なることもあった。完全に孤立したイランはイラクへの降伏を検討しなければならなくなっていた。

形勢の逆転
イラクの予想よりもイラン民衆の抵抗は強く20万を越える義勇兵が前線に加わった。またイラク軍部と政権政党であるバアス党の意見の食い違いなどから戦線は1981年5月には膠着した。さらに、完全に孤立したように見えたイランであったが、アラブ全てを敵に回しているイスラエルが援助を始める。米国製の部品をイスラエルが代わりに調達するなどしてイランを支えた。加えて、他のアラブ諸国と異なり国家元首のアサド一族をはじめ少数派のアラウィー派が政権を担っていたシリアと、反欧米を掲げるリビアがイランに味方した。奇しくもイスラエルと、アラブ諸国の中でも対イスラエル強硬派のシリアとリビアがそれぞれの思惑で共闘しイランを支援することとなった。
6月には旧領土ほぼ全域を奪還し、逆にイラク国内への攻勢に出る。イランの勝利もありうると考えたイラク側が休戦を持ちかけるきっかけとなったが、巻き返したイランはフセイン体制の打倒に固執したため戦争は終結しなかった。

イラク国内の反政府的なクルド人を支援して反乱を起こすよう仕向け、イラク軍の弱体化を狙ったが、これに対してイラク軍は反乱クルド人に化学兵器を使用したため、事態を知ったイラン軍の士気は下がった。しかし、一説ではこのときの化学兵器使用はイラン軍によるものであるとも言われており、真相は明かされていない。

1988年2月、イランとイラクは相互都市攻撃を再開、ここにおいて米軍がペルシャ湾に出動、4月14日にイランとの間で交戦となった(プレイング・マンティス作戦)。さらに、それまでイランに寛容だったサウジアラビアが断交を通告。イランは7月に安保理決議598号の受諾を表明し、8月20日に停戦が発効した。

1989年6月、革命の父ホメイニーは死去する。翌1990年9月10日にはイラン・イラク両国間で国交が回復した。

一説では、この戦争を通じてイラクがクウェートに対して抱え込んだ負債を帳消しにすることが、湾岸戦争へ発展する、イラクによるクウェート侵攻の目的のひとつであったとされる。



そもそも独裁国家とつるんだことがアメリカの失敗だったような。
イラン・イラク戦争の開戦目的がイラン政権を打倒し親米政権の樹立が目的だとしたら、
イラク・アメリカの目的は達成されていませんね。




湾岸戦争

1990年8月2日、イラク軍は隣国クウェートへの侵攻を開始し、8月8日にはクウェート併合を発表した。これに対し、諸外国は第2次世界大戦後初となる、一致結束した事態解決への努力を始める[9]。国際連合安全保障理事会はイラクへの即時撤退を求めるとともに、対イラク経済制裁措置を発表した。その6ヶ月後、ジョージ・H・W・ブッシュ米国大統領はアメリカ軍部隊をサウジアラビアへ展開し、同地域への自国軍派遣を他国へも呼びかけた。諸国政府はこれに応じ、いわゆる多国籍軍が構成された。アメリカ軍が多くを占めるこの連合軍には、サウジアラビア、イギリス、エジプトが順に参加した。



で瀕したイラクが同門であるはずのスンナ派クウェートに牙をむく。


イラク戦争

1991年の湾岸戦争の後にイラクが受諾した停戦決議(決議687)においては、イラクは大量破壊兵器の不保持が義務づけられていた。この達成を確認する手段として、国連は主に英米人で構成された「UNSCOM」(国際連合大量破壊兵器廃棄特別委員会)を設置し、イラクの兵器の保有状況、製造設備などを調査した。イラク側もこれを受け入れ、1997年位までは大きな混乱はなかった。

ところがUNSCOMは事前通達を伴う従来の方式から抜き打ち方式に調査方法を変更し、イラクはUNSCOMの査察に協力的ではなくなり受け入れを拒否した。

2001年に就任したジョージ・W・ブッシュ大統領は、就任直後から査察に対するイラクの非協力姿勢を問題にしていた。この頃からアメリカとイギリス国内でイラクに対する強硬派の主張が高まり始めた。イラクに対する強硬論が高まった背景としては、国連主導の経済制裁に緩みが発生し、密貿易で資金を調達したイラクが軍備の増強を行っているという観測があった[88]。2月には完成しつつあるイラクの防空網を破壊するための米英両軍による空爆が行われた。

9月11日、アメリカで同時多発テロ事件が発生した。世界でテロに対する非難やアメリカに対する哀悼のコメントが寄せられる中、イラク国営放送のコメンテーターは第一報として対米テロ攻撃を「アメリカのカウボーイがこれまで犯してきた人道への犯罪に対する果実だ」と論評した[88][89]。この報道は、アメリカ側のイラクに対する心証を悪化させたものの、アメリカ政府はテロ事件発生後一か月間はむしろイラク政府の関与に否定的なコメントをしていた[88]。10月20日になって、サッダーム・フセイン大統領はアメリカ市民に対する弔意をはじめて示した[90]。アメリカがイラクのテロ関与を疑いはじめた翌年の9月19日にはナージ・サブリーが国連総会で弔意を改めて示し、イラクとアルカイダを結びつけるアメリカ政府の論調を非難した。

2003年3月17日、先制攻撃となる空爆を行った後、ブッシュ大統領はテレビ演説を行い、48時間以内にサッダーム・フセイン大統領とその家族がイラク国外に退去するよう命じ、全面攻撃の最後通牒を行った。一方フセイン大統領は、自国に向けた演説では徹底抗戦を主張していたが、それまでに2通、そして最後通牒後に更に1通、計3通の同一内容の書簡をブッシュ大統領宛てに送った。内容は「米政府が政権交代を求めなければ、あらゆる要求に完全に協力する用意がある」というものだったと言う。アメリカ側はこれら3通の書簡を全て受取り拒否した上で[96]、2日後の3月19日(アメリカ東部標準時)に予告どおり、イギリスなどと共に『イラクの自由作戦』と命名した作戦に則って、侵攻を開始した。

ブッシュ大統領は退任直前のインタビューで「私の政権の期間中、最も遺憾だったのが、イラクの大量破壊兵器に関する情報活動の失敗だった」と述べたが、大量破壊兵器を保有していないことを事前に知っていれば、イラク侵攻に踏み切らなかったのではという質問に対しては、「興味深い質問だ」と述べただけで、明確な返答を避けた[120]。また、イラク戦争に賛成したヒラリー・クリントンは、2014年に侵攻は誤りだったと述べている[121]。



ざっとみてもイラクにターゲットを絞ったアメリカの行動は無理矢理感を拭えないですね。

アメリカへの嫌悪感がスンナ派の中で盛り上がったとしても仕方がないような。




アラブの春

民衆蜂起で政権を打倒しても、知識階級や中流階級が育っていないため、独自に民主主義政権を維持できない。

力のあるものが容易に組織を掌握できる。

結果新たな独裁が生まれるというような循環でしょうか。

下手に夢見たアメリカ、欧州、中東諸国が資金・武器を援助したことが結果的に流れを加速させている感じですね。

中東は戦国時代に突入しているので、戦争疲れを待つしかないような気もします。

原油がお金になる間は無理でしょうか。
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