「メガトレンド」を追いかけ、「5分後の未来を展望する」ことを理想します。

三韓

三韓

衛氏朝鮮や漢四郡の時代にはもっぱら「真番」と呼ばれていた。建武20年(44年)が韓の初出とされるが、『魏略』逸文によればこの時の韓とは後の弁韓と辰韓にあたる地域のようである[2]。この頃の三韓には右渠帥(西方面の首長)なる官職の呼び名が存在し、それがいた廉斯という地は今の忠清南道の西北部にあたる[3]。この廉斯の首長は光武帝から「廉斯邑君」に封じられていた。この頃はただ「韓」とのみいって三韓という言葉はなかった[4]。馬韓の初出は建光元年(121年)であり、この頃、遼東郡や玄菟郡にしばしば攻め込んでいた高句麗軍に従う傭兵もしくは同盟軍のような存在として、穢貊とならんで登場する。このように初期の頃の馬韓は高句麗との関係が深かった。その後、遼東郡の公孫氏が独立してからは、三韓諸国は公孫氏に服属したと思われるが詳細は不明である。


馬韓
三世紀の頃、馬韓は半島西部に位置し、52カ国に分かれていた。ほぼ後の百済、現在の京畿道・忠清北道・忠清南道に相当[5]する。辰韓や弁韓と比べると大国と小国の規模の落差がはげしく、臣憤活国・伯済国・目支国・臣雲新国・乾馬国の5国が有力だった。言語は辰韓や弁韓とは異なっていた。辰韓や弁韓と比べると、凶悍でなかなか魏の支配におとなしく従わず、統治のむずかしい民族であった。
西晋になってから馬韓の諸国は頻繁に朝貢していたが290年を最後に途絶える。314年、帯方郡が滅亡すると伯済国が強大化して、347年にはじめて百済王余句が中国に朝貢した。この頃までには馬韓の北部の国々は百済の支配下に置かれていたと思われるが、馬韓南部への百済の膨張は百済が高句麗に壊滅的大敗を喫し北部を失った後に、宗主国である倭国の領域を段階的に侵略・割譲などによって蚕食する事で進んだ。慕韓の存在が最後に確認されるのは昇明2年(478年)である。最終的には所謂「任那四県の百済への割譲によって終わった。


辰韓
辰韓という名は、斯蘆国[6]を中心とする韓の諸国の意味である[7]。「秦韓」とも書かれ、秦からの移民ともいわれる。三世紀の頃の辰韓は、馬韓の東方に位置し、12カ国に分かれていた。言語は馬韓と異なり弁韓と類同し、中国語とも類似していた[8]。


弁韓
「弁辰」ともいう[10]。弁韓という名は、半跛国[11]を中心とする韓の諸国の意味である[12]。三世紀には12カ国に分かれていて「十二国また王あり」という[13]。その12国の中で狗邪国・安邪国・半跛国・弥馬邪国が強国だった。大雑把にのちの任那、現在の慶尚北道・慶尚南道のうち、ほぼ洛東江より西・南の地域である。辰韓や馬韓とは異なり、弁韓の名で西晋に朝貢した記録がなく、倭王武の上表文にも弁韓という言葉はでてこない[16]。






歴史的には、朝鮮半島の北側が高句麗、朝鮮、楽浪郡(漢)、南側が三韓ですね。




馬韓

衛満が箕子朝鮮を滅ぼした際(衛氏朝鮮)に、箕子朝鮮の最後の王、準王は数千人を率いて逃亡し、馬韓を攻め落として韓王となって馬韓を支配したという。



この記述が本当なら、馬韓は殷王朝の生き残りになりますね。


辰韓

『後漢書』辰韓伝[3]、『三国志』魏書辰韓伝[4]、『晋書』辰韓伝[5]によると、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人がおり、馬韓はその東の地を割いて、与え住まわせ辰韓人と名づけたという。そのため、その地の言葉には秦語(陝西方言。長安に都があった頃の標準語で、この亡民が秦代〜前漢代に渡来したことを物語る)が混じり、秦韓とも書いた。秦人は王にはならず、王族は馬韓人であった。




弁韓

辰韓と弁辰(弁韓)は、風俗や言語が似通っていたという。土地は肥沃で、五穀や稲の栽培に適していた[1]。蚕を飼い、縑布を作った[1]。大鳥の羽根を用いて死者を送るがそれは、死者を天空に飛揚させるという意味であった[1]。鉄の産地であり、韓、濊、倭などが採掘していた[1]。市場での売買では鉄が交換されており、それは中国での金銭使用のようであった[1]。
また倭人とも習俗が似ており、男女とも入れ墨をしていたとある[1]。武器は馬韓と同じであった[1]。礼儀がよく、道ですれ違うと、すすんで相手に道を譲った[1]。

4世紀末から5世紀前半にかけては広開土王碑文によれば、391年、倭が百済と新羅を破り臣民とする[9]。393年には倭が新羅の王都を包囲する[10]。397年、百済が倭国に阿シン王の王子腆支を人質に送り国交を結んだ[11]。いったん高句麗に従属した百済が、399年高句麗を裏切り倭と通じる[9]。400年には倭が新羅の王都を占領していた[9]。高句麗の広開土王が新羅の要請に応じて軍を派遣し、倭軍を任那・加羅に退かせ、高句麗軍はこれを追撃した[9]。402年、新羅も倭国に奈忽王の子未斯欣を人質に送り国交を結ぶ404年には高句麗領帯方界にまで倭が攻め込んでいる[9]。



弁韓。不透明な記述です。

辰韓と言語・風俗が似ているとのことなので、秦国の移民なのかなとも思えます。

土地が肥沃とのことで、なぜ馬韓はここまで入植しなかったのか?

「倭国の習俗と似ている」との記述で倭国から既に入植していて、

馬韓から手が伸びないように辰韓と手を結んでいたのだろうか、

等色々考えさせられます。


『広開土王碑文』。結構好戦的な内容で、紀元前に2000年間二つの王朝で静かに統治された土地柄には思えません。

土着の民、秦国移民、倭国移民、漢王朝遠征があったと仮定すると、これだけ入り乱れるのかもしれません。


390~400年代に掛けて朝鮮半島へ繰り返し倭国による遠征があったというのは恐らく困難でしょうから、

朝鮮半島に倭国の拠点が築かれていたとみるべきではないでしょうか。


朝鮮半島史についてあまり資料がない中で、突然の石碑による好戦的な歴史。

信用していいのかなと思えます。
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