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最近になり聖徳太子は実はいなかったとされている4つの説

聖徳太子と呼ばれているのは厩戸皇子のことです。日本書紀が誕生したときに、聖徳太子という名称に変更されており、それが今では当たり前となり伝わっていますよね。

日本書紀にしか十七条の憲法の記載が無いとうのも少し不自然です。

推古天皇が王であるとしているのは、聖徳太子の関係で作られた史料でしか見当たらないのです。つまり聖徳太子だけでなく、推古天皇などもすべてが架空の作られた人物だったのではないかと考えられます。






あの「聖徳太子」が教科書から姿を消すワケ

いままでは「聖徳太子」と書かれていたのが、最近の教科書では「厩戸王(聖徳太子)」(山川出版社の『詳説日本史B』)とカッコつきの表記に変わってきています。

彼の行ったとされる実績は「冠位十二階の制定」「憲法十七条の制定」「国史編纂」「遣隋使の派遣」「仏教興隆(三経義疏、法隆寺・四天王寺の建立)」など、こうして書き連ねるだけで膨大です。冷静に考えて、「これらをひとりの人物がすべてやったとは考えられない」というわけです。

遣隋使派遣はあったのですか?
ありました。でも小野妹子で有名な607年が最初ではありません。日本側の記録にはありませんが、中国側にはっきりと600年に遣隋使が訪れたときの詳細な記録が残されています

厩戸王が死去して50年後、凄惨な皇位継承権争い(壬申の乱)が起きます。天皇の権威は失墜し、勝者となった天武天皇(631?~686)は「天皇中心の中央集権律令国家づくり」をすすめていきます。そのとき天武天皇は「厩戸王」というひとりの人物に着目します。彼と同時代に行われた数々の施策を誇大評価し、これらの偉業すべての部分で関与したとする「聖徳太子」をつくり上げたのです。ライバルである有力豪族に対し、神代から続く自らの血筋の優秀性と日本国の統治者であるという正統性を再認識させようとしたのでは、と考えられています。






遣隋使

遣隋使(けんずいし)とは、推古朝の倭国(俀國)が技術や制度を学ぶために隋に派遣した朝貢使のことをいう。600年(推古8年)~618年(推古26年)の18年間に5回以上派遣されている。なお、日本という名称が使用されたのは遣唐使からである。

倭の五王による南朝への奉献以来約1世紀を経て再開された遣隋使の目的は、東アジアの中心国・先進国である隋の文化の摂取が主であるが、朝鮮半島での影響力維持の意図もあった。この外交方針は次の遣唐使の派遣にも引き継がれた。

この派遣第一回 開皇20年(600年)は、『日本書紀』に記載はない。『隋書』「東夷傳俀國傳」は高祖文帝の問いに遣使が答えた様子を載せている。

第二回は、『日本書紀』に記載されており、607年(推古15年)に小野妹子が大唐国に国書を持って派遣されたと記されている。

倭王から隋皇帝煬帝に宛てた国書が、『隋書』「東夷傳俀國傳」に「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)と書き出されていた。これを見た煬帝は立腹し、外交担当官である鴻臚卿(こうろけい)に「蕃夷の書に無礼あらば、また以て聞するなかれ」(無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな)と命じたという[2]。
なお、煬帝が立腹したのは俀王が「天子」を名乗ったことに対してであり、「日出處」「日沒處」との記述に対してではない。「日出處」「日沒處」は『摩訶般若波羅蜜多経』の注釈書『大智度論』に「日出処是東方 日没処是西方」とあるなど、単に東西の方角を表す仏教用語である。ただし、仏教用語を用いたことで中華的冊封体制からの離脱を表明する表現であったとも考えられている。

小野妹子(中国名:蘇因高[3])は、その後返書を持たされて返されている。煬帝の家臣である裴世清を連れて帰国した妹子は、返書を百済に盗まれて無くしてしまったと言明している[4]。百済は日本と同じく南朝への朝貢国であったため、その日本が北朝の隋と国交を結ぶ事を妨害する動機は存在する。しかしこれについて、煬帝からの返書は倭国を臣下扱いする物だったのでこれを見せて怒りを買う事を恐れた妹子が、返書を破棄してしまったのではないかとも推測されている。

これは倭皇となっており、倭王として臣下扱いする物ではない。『日本書紀』によるこれに対する返書の書き出しも「東の天皇が敬いて西の皇帝に白す」(「東天皇敬白西皇帝」『日本書紀』)とある。これをもって天皇号の始まりとする説もある。また、「倭皇」を日本側の改竄とする見解もある[5]。

小野妹子が「返書を掠取される」という大失態を犯したにもかかわらず、一時は流刑に処されるも直後に恩赦されて大徳(冠位十二階の最上位)に昇進し再度遣隋使に任命された事、また返書を掠取した百済に対して日本が何ら行動を起こしていないという史実に鑑みれば、 聖徳太子、推古天皇など倭国中枢と合意した上で、「掠取されたことにした」という事も推測される[5]。




倭国の遣隋使
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